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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2019年1月の記事一覧

そばにいることが察知できれば

最近、生物学づいているので、今日はピーター・ゴドフリー=スミスの『タコの心身問題』を読みはじめた。 読もうと思ったきっかけはちょっとアレなんだけど、内容はまだすこし読んだだけだけど、これがなかなか面白い。 例えば、「私たちはつい行動や感覚などを動物のものだと考えがちなので、動物がいない世界には行動も感覚もないように思ってしまう。だが、実際にはそうではない」なんて書き出しからはじまる次の一文なんかは、すこし前にオフィスでそんな話をしたなーなんてことを思いだしたりした。

自然の極と精神の極

自然と精神、あるいは、自然と文化。 古くからある、この二元論の思考装置がいま機能不全に陥っている。 いや、壊れたのは最近のことではない。 20世紀のはじめには、すでに修理が必要なことは指摘されてきた。 だが、上手な修理工は現れることなく、ほとんど機能しない形骸化された二元論の残骸だけが横たわりつつも、それに代わるものなく人々の思考を制限している。 もはや、そこから得られるものはないというのに……。 近代の「憲法」ここにこの二元論の装置を別の形で描いた人がいる。 純化と翻訳

パッチワーク・モンスター

そうそう。こういうことなのだ。 僕らはすこしも世界から疎外されてなどいない。 私たちは粘着性の汚物の中にいるというだけでなく、私たち自身が汚物なのだが、私たちはそこにひっつくやり方を見出すべきであり、思考をより汚いものにし、醜いものと一体化し、存在論ではなくてむしろ憑在論を実践すべきである。 すでに読み終え、一つ前のnoteで紹介したモートンの『自然なきエコロジー』より再び。 汚物の中にいる汚物がまわりとひっつくやり方は、ロマン主義の時代にすでに生み出されていた。そ

デザインと言語化2

デザインや美術作品などの視覚的なものは言葉にしにくい。 そんなことを時々聞く。 「観る者の精神状態」により「作者の意図に呼応しながらも、観る者の介在によってはじめて完全に存在しうる」、「曖昧で、不確定的で、多義的で」あるような美術作品(主に絵画)について考察した『潜在的イメージ』で、著者のダリオ・ガンボーニは、こう書いている。 観る者が(物質的対象としてではなく生成プロセスとしての)芸術作品の生成に貢献している事実を重視するとき、「潜在的イメージ」という概念は、視覚芸

人間中心主義に関するメモ

前にも紹介したけれど、スティーヴン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』という本にこんなことが書かれている。 科学の実験や発見の光に照らしてみても、人間中心主義はますます支持できないものになっている。今やぼくらはこの地球上の他のありとあらゆる生きものとどれほどぼくたちが似ていて緊密に関係しているかを知っているので、自らを他に例のない独自の存在と考えることはできなくなっている。だから、ぼくらは、その境界をとうてい把握しえない宇宙において、コスミックな尺度で生起している様々な過程

出口を探して

出口はあるんだろうか? ふと、そう思うことがある。 自分自身の考えにとらわれずに済む出口。外の状況に応じて、それに適した解をその都度見つけようとは常にしているけど、それでも、我にかえると、それも所詮は自分自身の考えから抜け出せずにその主張を続けていただけではなかったか?と。 もちろん、こちらから出したものに対する反応をみて、相手との対話が生まれていると感じることもある。けれど、それはたまたま相手との相性が良かったから、こちらが自分の外に出なくても、相手ももともとその範疇

自分が何者かなんて毎秒更新すればいい

自分の限界を固定してしまう思考や言説がとにかく嫌いだ。 いっけん立派な責任感を示すかのように、〇〇の役割だったらそれは自分でやるべきだとか、そういうことをやるのが〇〇の仕事だよね、と、その時々の状況などは無関係に、仕事や役割の範囲を勝手に限定して、何のことはない、ただやらない言い訳にする(あるいは他人にやらせる口実にする)のは、まったくもって創造的(クリエイティブ)でないし、素敵でもない。 創造的であろうとすれば、その時々の状況に応じて、その場で求められていることを実現す

ウィ・アー・ザ・ワールド

全体があると想像することは、悪い考えを生んでしまう。なんらかの全体を想定して、それが上手くいっていないことを理由に、その責任の所在を問う姿勢は、全体を想定しつつもその内部で非理性的な対立を生む。簡単に言えば、上手くいかないことをとにかく自分以外の誰かのせいにしてしまうような否定的な態度を。 「エコロジーは私たちに、たとえ否定的なあり方であろうとも、事実上私たちは世界であるということを思い出させてきた」と、ティモシー・モートンは『自然なきエコロジー』で書いている。 この「否定

記述/痕跡

パリンプセスト。 羊皮紙にすでに書かれていた内容を消し、その上に別の内容を記述する、リサイクルの方法。 紙が普及する前、記録用のメディアとして用いられていた羊皮紙は、高価であるがゆえに、そうした使われ方をする前提で使われた。現代では、一度消された記録を復元する技術が開発され、その復元から重要な発見がされることもあるというが、消されたということは当時「重要ではない」と判断されたということだ。 何が残すべき記録であり何がそうでないかどうかを判断するのは、時代などで判断基準が異なっ