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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2018年7月の記事一覧

鯨の語源

昨日は台風で出かけられなかったこともあり、メルヴィルの『白鯨』を読みはじめた。 その前に、チャールズ・オールソンの『わが名はイシュメイル』を読み、続けて高山宏さんの『アレハンドリア』の中の『白鯨』論を読むうちに、まだ読んだことがなかった、この古典を読みたくなり、amazonで注文したのを金曜日に受けとっていたというタイミングでもあったからだ。 上中下巻と3冊あるうちの、まだ上巻の3分の2ほどを読み終わったくらい。『白鯨』といえば、エイハブ船長が自分のこと片足を奪ったモビー・

ポイント・オブ・ビュー

ほらね、と思わず、言いたくなった。 すぐ下で紹介する文章を見つけて、ルネサンス期における思考の大きな転換を無視して、いまのビジネスシーンにおけるイノベーションの方法は語れないんだって、あらためて確認できたからだ。 「視点」という訳語で二流三流の売文家風情が自分の「方法」を語っている場面などのべつ見せられるこの頃、そのたびに19世紀末のヘンリー・ジェイムズの理論的苦闘を思いだす。「ポイント・オブ・ビュー」が元々はルネサンスの絵画アートの専門概念でしかなかったものを、そっ

思いの外

常に自分とは違う考えがある。 自分には見えていない部分があり、それを考慮に入れると考えは変わってくる。 そんな風に自分の思いの「外」の部分があることを前提にしているのと、そうでないのとでは、他人や他人の考えに対する接し方が変わってくる。 自分がその時点で考えてること、考える前提としている見えているもの、理解しているもの、信じているものの外(ほか)に、自分の視野に入っていないもの、思考の前提になっていないものがあり、それを考慮するともっと自分の考えは変わる(よくできる)可能性

迷宮

「誰ひとりとして、社会的合成から逃げることはできない」。 『内的体験』でバタイユはそう書いている。逃げることの叶わぬ、その社会的合成は迷宮に例えられる。 だが複合性は、一段また一段と高まりつつ、この以上のもののために迷宮となり、そこで存在は際限もなく道に踏み迷い、決定的におのれを見失うのである。 おのれを見失う存在。 そう、迷宮はおのれという存在が迷う場所である。複合性をもった社会的合成のなかで、個々人はおのれという存在を見失う。そんなものが最初からあったかどうかは

囚われ人

自分の考えに囚われて、その場の状況や相手に応じた考え、対応がとにかくできない人が多い。 状況などとは無関係な手法や道徳にこだわってしまい、まさに場や相手などの状況に合わせて、何がこの場合に適切なものなのかを考えて見た上で、自分が何をすべきなのかを判断できない。 一言で言えば、応用力の完全なる欠如だ。 みんな、おそらく捉え間違えてるんだと思うが、基本的にはすべての現実的状況は応用的状況だ。手法でも道徳的な考えでも、元からあるものをそのまま当てはめられる状況など、ひとつもない

リベラルアーツの先生

バタイユ熱が止まらない。 昔から好きだったが、去年末、ちょうどこのnoteをはじめたあたりから、とにかくバタイユ関連の本を、ほおっておくと読みたくなる。 昨日紹介した『眼球譚』のあとは、『ドキュマン』を読みはじめていて、そういうバタイユ自身による著作はもちろん、いまはドゥニ・オリエの『ジョルジュ・バタイユの反建築』も同時に読み進めている。 とにかくバタイユの考えは読んでどういうことかを考えてみると、すごくしっくりくる感覚があるし、日々生きて行動する上での姿勢の取り方を教

意味は安全ではない

前回の「徴候・記憶・外傷/中井久夫」というnoteで、人間という古くからのしくみと常にアップデートされるしくみの混合からなる複雑な構造の生き物についてのむずかしさについて書いた。 特に、記憶のシステムがどうも厄介に思う。 どういう形式で記憶として残すか/残るかという点で、中井さんが分類しているのは、通常僕らが利用している成人型記憶と3歳以降使われなくなり基本的には消去される幼児型記憶だ。 幼児型記憶は大部分消去されるし、普通は使われないが、「たわむれに撮った写真がアルバム

名づけられないもの

猫は「名前はまだない」といったまま、最後まで名をもたなかったが、すくなくともまだ人間に存在を認められていないものは、名前がない。 だからこそ、イノベーティブなものには名もないし、それを簡潔に説明しうる言葉などはなくて、とうぜんなのだが、どうもイノベーションはまだ生まれないのか?とか言ってる人や、どうしたらイノベーションは生まれるのか困ってるんですとか言ったりする人に限って、名前がないものに拒否感を示す。そんなの意味ないんじゃないですか?と。 いやいや、その姿勢でどうしてイ

意味のフォルム

100本目のnote。 昨年末からはじめたので半年強で100本目の到達。月あたりだいたい15本、平均して2日に1本ペースで書けている計算になる。実際はそんなにコンスタントに2日に1本書いているわけてはないけれど。 にしても、こうやって比較的こまめに、自分がぼんやりと頭で思っていることを整理するために文章化する作業をやっていると、いろんなことの進み具合が違ってくる。 いや、本来、この言葉にして頭のなかを整理するということをしない限り、何かが次に進むということは起こらないはず

いい人

リスクを負えるか。 保守的にならずに、いまを破壊する選択ができるかどうか。 リスクを取れるかどうかもあるし、そもそも保守的な自分の思考の枠を飛びだしてリスクを孕む発想に向かえるかもある。 亭主の仕事は気配のありかたと趣向の盛り付けをきわめることにある。これは景色をつくるということである。 こうしてやっと主客の一線が淡々と見えてくる。そして、遊ぶものと遊ばれるものの交感が生きてくる。それには亭主は、つねになんらかのリスク・テイキングをするべきなのである。 亭主がリスクを負

作ることはゴールではない

今朝通勤途中に歩いていて、ふと思った。日本のビジネスの現場には、最終的に何かを作りだすことがゴールであるかのような幻想があるのではないだろうか?と。 ものづくりへの過度な期待も、クリエイティブということばの独特な捉えられ方も、デザインやアートの持ち上げられ方も、何か具体的なモノ(非物理的なデジタルなものも含め)をアウトプットすることそのものがゴールであるように捉えてしまう、間違った考えが常態化してしまっているからではないだろうか。 だから、とにかく作ろうとしてしまう。何を

ターブル・ドペラシヨン

ミシェル・フーコーの『言葉と物』という本の最初に、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスのエッセイ(「ジョン・ウィルキンズの分析言語」)に登場する中国の辞典が紹介されているというのは比較的知られたことだろう。 辞典といいつつ、その内容は、 はるか昔のその著述の中で動物は以下のように分類されている。(a) 皇帝に帰属するもの、(b) バルサム香で防腐処理したもの、(c) 訓練されたもの、(d) 乳離れしていない仔豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) はぐれ犬

ひらめきのありか

昔から思っていることがある。 情報をちゃんと整理できる力があれば、ひらめく力とかアイデアを出す力とかは特別必要ない、と。 およそ、10年前に書いた著書のサブタイトルを「ひらめきを計画的に生み出す」としたのも、そういう理由からだ。 ひらめきだとか、アイデアだとかがどこからか理由もなく生まれてくる神がかり的なものだとか思い込んでる人は、単に「情報を整理する」ことを疎かにしているだけだと思う。 そして、情報の整理という作業を通じてまだ目に見える形にはなっていない事柄への理解を深め