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意味のフォルム

100本目のnote。

昨年末からはじめたので半年強で100本目の到達。月あたりだいたい15本、平均して2日に1本ペースで書けている計算になる。実際はそんなにコンスタントに2日に1本書いているわけてはないけれど。

にしても、こうやって比較的こまめに、自分がぼんやりと頭で思っていることを整理するために文章化する作業をやっていると、いろんなことの進み具合が違ってくる。
いや、本来、この言葉にして頭のなかを整理するということをしない限り、何かが次に進むということは起こらないはずだ(用意もできてないのに、とにかく機械的に次をはじめてしまうということでもない限り)。
自分の頭のなかにある情報を常に使えるよう整理しておく作業はとても大事だと思う。

情報を外から入れてそのまま使えることなど、ほとんどない。ただ入れただけだと、特に応用がきかない。
自分の頭のなかにあるものは自分でちゃんと整理して、自分にとって有用な状態を作っておかないと、必要なときに使いものにならない。単に情報をもっているだけではどうしようもない。有用でない状態でただ残しておくなら、ただの脳内ゴミ屋敷だからだ。情報は自分が使える状態でもっていないと、ただ嵩張るだけで身動きしづらくなる。そして、自分の頭のなかの情報は、当然ながら他に誰も使いようがない。使えない情報を未整理のまま、頭のなかに抱えておくのは、いったい誰得なのか、まるでわからない。

でも、たいていは整理が足りない。
そんなことだから、やたらともやもやすることが増える。
もやもやが多いなら、それは外の環境のせいである以上に、自分自身の脳内環境の問題のほうがはるかに大きいはずだということにちゃんと向き合ってみた方がよい。

もやもやしてるなら、もやもやの状況を頭のなかでいったん整理するのは自分でしかできない仕事である。頭のなかのことだから、それしか手がないのは当然だろう。
わけのわからない状態で、ただただ疑り深く感じているばかりで、自分の頭のなかの情報を自分で整理することをサボっている状態なんて、時間的にも無駄だし、自分自身の精神衛生上もまったくよろしくない。まさにゴミ屋敷よろしく病原菌がはびこる部屋で病気をおそれつつもただ何もせずビクビクしてるようなものだから。

あえて反面教師的に、バタイユの「アンフォルム」という概念について紹介してみよう。

隠喩、形象、主題、形態、意味--何かに類似しているすべてのもの、1つの概念という統一性へとまとめられるすべてのもの--、これこそ、アンフォルムという操作が踏み潰し、不遜にもポイと脇に押しやるものなのだ。それはまさしく、がらくたである。

イヴ=アラン・ボワとロザリンド・E・クラウスによる『アンフォルム 無形なものの辞典』という本のなかでの「アンフォルム」という概念の説明のひとつである。
まさに、ここで呼び出された隠喩や主題や意味などの有用なものを、人の精神をその束縛から逃すためにバタイユがとる戦略がこの「がらくた」づくりの「アンフォルム」というものなのだが、ここまで論じてきた話は、バタイユが戦略的に生み出そうとするがらくただらけの混乱を、意図せず望みもせず得てしまっているということにならないだろうか。
そこにはまさに理解や行動のためのフォルムが見出せない。フォルムが捉えられなくては行動を促すアフォーダンスが生じないのも仕方ない。そこには、もやもやするしかない状況があるだけだ。

ようは、なぜ、その状況を変えることをしないのか?ということになる。

それで自分が心地よく心健やかになれなかったとしても、それが自業自得でしかないことになぜ気づかないのだろうか、と。多くの人がそうやって、悪い状況をとにかく自分に引き寄せる態度を平気でしてしまっている。

そうではなく、もやもやした状態が続くことを、いったん、その一部であれ、言語化して整理や構造化ができると、次のステップへの足がかりになる。情報を整理して自分なりにフォルムを見いだす作業が次に進むためには必要である。

大きな一歩を踏みだす必要はない。
ひとつステップを上がれば見える景色も、できることの変わってくるので、もやもやを晴らす糸口は意外と簡単に見つかるようにもなる。ようは、それで日常的にもやもやしてることがほとんどなくて済むようになる。

そもそも、もやもやしてることほど、馬鹿げた状態はないと思ってる僕には、noteを習慣的に書くことはよいルーティン的なワークになっている。

もちろん、頭を整理する手段がほかにあればいいわけで、noteにこだわる必要はない。
僕自身、note以外でも仕事のなかでの人とのディスカッションや、個人で白紙にスケッチしながらだったり、ポストイットに書き出した要素を並べ直したりグルーピングしたりなどの複数の異なる方法を用いて、言語による頭のなかの整理、方向づけを行なっている。

とにかく、いろんな情報が日々入ってくるなかで、それを頭のなかだけで整理しきるというのはむずかしいはずだ。たくさんの情報を頭のなかだけで俯瞰して整理しきるなんて無理だ。そんなビューを頭のなかに展開できる人などそうそういないはずだから。

だからこそ、もっている未整理のままの情報を視覚的に俯瞰できる形にして、情報間の関係性を整理してあげる作業を頭の外ですることが大事だ。
未整理の情報はただの断片のままでしか利用できない。断片としての情報のもつ意味などは所詮、Googleで検索可能なものでしかない。そんな価値しかないものをわざわざ頭に残しておくのは無意味である。

それより大事なのは、もっている情報間にどんな気づきが得られ、なおかつその気づきがどんなアクションを促すか?を知ることである。そう、気づきとは、アフォーダンスに誘う思考のフォルムを得ることだ。実世界のフォルムが自分自身の体験と相まって、さまざまな行動を促すアフォーダンスを発生させることに近い。そのアフォーダンスは世界に対する具体的な行動による関与によって形成されるわけで、物のフォルムがあらかじめアフォーダンスを有しているわけではない。部屋に置かれたさまざまなものはただ誰かが勝手に置いたのでは気味が悪いだけだ。それはそこに住む人が意思をもってレイアウトしてはじめて使用可能な道具となり、生活行動を促すものになるはずだ。

同じように思考のアフォーダンスにつながるフォルムも元から情報の側にあるはずもなく、あくまで自らの積極的な関与、整理整頓の作業を通じて形成されるものだ。だから、それはGoogleを検索しても出てこない。このアクションを促す気づき=フォルムを得ようとしないから、グダグダともやもやして状況に甘んじることになる。

つまり、こういうことだ。

一方、人間は現象の生得的解釈を支配していない代わりに、現象の〈一義的〉直接的支持に従う能力もまた持たないのである。この欠如こそ、動物の声ー起源と人間の言語ー起源の間の本質的違いを表す最初の決定的徴候である。人間の言語は固定した意味付与の指示的図式に根を下ろすものでないゆえに、人間は声に意味付与し支持するものをまず自分で求め作り上げねばならない。

エルネスト・グラッシが『形象の力』で言っているように、「人間は声に意味付与し支持するものをまず自分で求め作り上げねばならない」。誰かの伝えてきた意味そのままに情報を保持していても、それは本当の意味では使いものにならない。せいぜい元の意味をそのまま鸚鵡のように繰り返すだけだ。そこからの応用はほとんど利かないはずだから、ほぼ役に立たないに等しい。

だからこそ、情報に自分自身で意味を与えることができなければ、それはどこからか聞こえる幻聴のように、自分を苦しめる無意味なガラクタでしかなくなってしまう。自分で自分を苦しめるものを背負う必要はない。
背負ったならその重みが無駄にならないよう、ちゃんと整理と構造化をして、意味のあるフォルムをそこに見出す作業をするクセをつけよう。
それは使ったものを出しっぱなしにせず、片付けするクセをつけるのに近い。

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