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勇気と、勇気に似たもの① 〜積読〜

勇気と、勇気に似たものと、積読のこと

いま、家の外で、これを書いているのだけれど、心に浮かんでいるのは、家の積読(つんどく)のこと。

積読って、どうして生じるのでしょうかね?どう考えても日々の「読書に充てられる時間の積算」では、これらの本を読みきれないと思いつつの追加購入、追加積読。また一冊、お家に連れて帰ってきてしまった。

積読を目の前にしたり、積読が心に浮かんだりした時、ネガティブな気持ちがよぎる人もいるでしょうか。ネガティブな気持ちがよぎるタイミングがあったりするでしょうか。わたしは全然、あります。スケジューリングができないのか?浪費癖なのか?自分は、バカなのか・・・?

ここで、アクロバティックに思考のバク転、バク宙してみてもいいかもしれない。

「積読=勇気」

ちょっと、意味がわからないでしょうか?

お店に置いてある本を、お家に連れて帰る勇気

基本わたしにとって本は、道の向こう側からやってくるスキのない剣豪のような存在。自分の丸腰が気になる。切られやしないか。でも通り過ぎていってしまうのを見過ごすのは惜しい。いっそ、声をかけるか。剣豪をホームパーティーに誘うのはそれなりに胆力がいる。

7月7日の日記

わたしは幼少の頃も、思春期の頃も、まったく本に親しんできませんでした。マンガは小さな頃から好きでしたし、小学校の6年間、学研から出ていた「科学・学習」の「科学」を親におねがいして定期購読していましたが(わかるのは、ある世代までかも??)、逆に言うと、そのくらいしか「教科書以外の活字」を目にしていなかったかもしれません。中高生の時分、読書感想文の「課題図書」すら、「読まずに」感想を書いていました。やらされるのが、好きじゃなかったんですね。

読書というのは「やらされ感の塊」でした、自分にとって。自主的に読書をはじめたのは、高校を卒業し、家から通えない距離の大学に入り、一人暮らしをはじめて、やっと、ありとあらゆる「やらされ感」から解放されてからです(ありとあらゆる「やらされ感」から解放されて、一瞬で大学からドロップアウトしてしまいましたが、それはまた別の話)。

自主的に本を読むようになったのが、ほんとうに成人直前くらいからなので、自分にとって本は「勇気とともに手にするもの」です。それは、大人になってから、自転車を、水泳を、自分の側に引き寄せようとしている人の感覚に近いかもしれません。自転車に、プールに、なんとはなしにではなく、その都度「よいしょ」と自分に声かけしながら、緊張感とともに、勇気とともに、近づいていく。

本。勇気とともに手に取れただけで、もう、読む前から幸せが体の内側からこみ上げてきます。だって、本を読んでいる時間って、ほんとうに、最高なのですから。

さて、積読に話を戻します。

積読って、どうして生じるのでしょうかね?どう考えても日々の「読書に充てられる時間の積算」では、これらの本を読みきれないと思いつつの追加購入、追加積読。また一冊、お家に連れて帰ってきてしまった。

それって、少なくとも自分にとっては「勇気を出した履歴」なんです。勇気の蓄積。堆積。あるいは、「約束された幸せな時間の先取り」と言ってもいいかもしれません。





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