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蔵修息游と守破離

10年くらい昔の話なんですが、蔵修息游という言葉を知りました。

ぼくが知ったときは学習プロセスとして蔵修息游が紹介されてたんですが、どんなものか簡単に説明しますと、、、

蔵:まずは知識をため込む時期
修:習い憶えたことを繰り返し練習する時期
息:呼吸レベルで無意識につかえるようになる時期
游:遊びにも似た新たなチャレンジを始める時期

こんな感じで、蔵修息游の順番に人は学習を重ねるべきだという話だったんですね。たしか元ネタは中国の礼記(らいき)だったと思います。

どこで、なにがきっかけでこの言葉を知ることになったのかは全く覚えてないんですが(苦笑)、その日以来心のどこかでは常にこれを指針として学習を重ねていたと思います。

そのうえで分かったことがあるんですが、やっぱりやっかいになってくるのは『蔵』なんだなと、いうことなんですね。日本の言葉で言うところの守破離の守ってとこでしょうか。

なんでここがやっかいなのかというと、とにかく外的要因に振り回されやすい部分だからですw

例えばなんですが、料理を趣味にしたいと思ったとします。そして、そのレベルをプロ級にまで上げたいと完全に燃えているとします。

となると、まずは食材の切り方なんかという部分は一生懸命先生の話を聞くと思うんです。いちょう切りがどうとか、三枚おろしがどーとか、この料理にはこんな切り方がいいだとかです。

ですが、台所をきれいに使いましょうとか、3つの料理をアツアツの状態で出せるように時間配分に気を配りましょうなどと言われ始めると、人によってはちょっと面倒になってきます。

包丁捌きに磨きをかけたい!料理のレパートリーを増やしたい!という動機で始める方がほとんどですからね。そんな雑務みたいな作業があるなんて微塵にも考えてなかったことでしょう。

そしてそもそも、料理教室に通う時間がなかなか取れなくなって、だんだんと行くのが億劫になってくるというのも出てくるかもしれません。(そして熱意が失せてやる気がなくなる)

こんな感じで、自分が意図しない部分で振り回されて、いつのまにか蔵や守の段階をやめてしまうということなんですよね。

なんでこんなことが起こるのかというと、ぼくたちが目にしている情報というのは、そのほとんどは息や游、そして離の段階の人が出したものがほとんどだからです。

つまり、今からぼくたちが踏み込む蔵や守の情報が全くといって皆無だからなんですね。だから「思ってたのと違う!」ということで、簡単に離れていってしまうんです。

単純な話です

なにかのスキルをマスターしたいなら、まずは「なにが起こっても絶対に食らいついてやる」という覚悟が自分にあるかどうかを確認する必要があります。

もしくは、学校や会社のように、半強制的に行かなければならない環境に身を置くかです。

田辺輝恭

ReveDunJourプロジェクトは"夢”に特化し、子どもたち若者たちへ夢の持ち方・叶え方を発信しています。世界で夢を叶えてきた達成者たちが在籍。彼らから知恵と考え方を絞り取ることを是非としています。大和の心で我が儘に。