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山猫(Il gattopardo)

大学生の頃から、幾度となく鑑賞している映画。私が今までで一番愛してやまない映画です。

ほぼはてなブログの丸コピーですが、どうしてもここでも触れておきたかったので、加筆しながら書いておきます。


”耽美なるイタリア貴族の没落”

毎度3時間程度の長丁場を終えると、感動のあまり語彙力が低下して、魅力を発信する為の能力が無くなってしまう気がします。

ですが、最近、とみにこの映画、私はどうみていたのかしら、と、記憶がぼやけてしまうことが多々あるので、アルバムを作ろうかしら、と思い立った次第です。今日、東京都写真美術館のスクリーンで鑑賞したので、それを記念にブログで記録します(※この文書を最初に書いたのは2019年3月21日)。

私は、サリーナ公爵ドン・ファブリーツィオを、自分の映画鑑賞や、今まで読んで来た創作の中でも最大のアイコンとしています。

彼は、至高の貴族(血統だけではなく、魂の在り方としても)であり、また、没落しつつある大領主達のアイドルであるとともに、中世的な軍事貴族から知的な上流階級(インテリジェント)に完全に変わってしまった人々の表れでもあるのです。

同じく、私の愛してやまないドラマ『ダウントン・アビー』では(時代は大分後となりますが)ノーブレス・オブリージュ宜しくの高潔な英国貴族がわんさか現れます。ですが、『山猫』のサリーナ公は徹底した現実主義者であり、冷徹な目で自分の社会、状況を推し量ります。

愛娘コンチェッタへも同様で、彼は、家のことや、現実を踏まえながら接します。公爵のコンチェッタへの振る舞いは、家族への愛情と言うよりも、婚姻で資産を築いてきたであろう門閥貴族にも由来するような、冷徹な、むしろ冷酷と言っても良いぐらいの冷めたバランス感覚から来る対応です。

タンクレディに恋するコンチェッタについて、屋敷付きのピローネ神父が嬉々として報告してきたとき、公爵は吐き捨てるかのように、あの娘に政治家の妻が務まるのか、と言い捨ててしまいます。

それに代わって、公爵は、未来ある青年、タンクレディを愛し、タンクレディの野望の実現のため、新たなイタリアで出世してゆく彼のその行く先を大いに応援します。

公爵は、別にコンチェッタを嫌っている訳ではなく、むしろ、自分と同じ気質を持つ、実に貴族らしい女だと評価しているのです。けれども、移り行く激動のイタリアで、民衆が望む快活な画を描けるのは、タンクレディであり、旧来の高潔さを持つコンチェッタではない、と、公爵は悟っていたのです。天文学者でもあるサリーナ公の、そうした科学的な見方が、公爵家の行く末への見方にも表れているのだと思います。

私にとって、冷静で、思慮深く、教養と機知に富んだサリーナ公が、フィクション世界における理想の主人公の像なのです。


”シチリアの晩鐘”

さて、話題を変えて、この映画の名台詞として取り上げられがちな、『変わらずに生きてゆくためには、自分が変らねばならないのです』というタンクレディの言葉があります。ですが、私はむしろ、それよりも、サリーナ公が新政府からの使者へ謂う

『自己満足は悲惨よりも強い』

という言葉に、この映画で描きたい一部分であろう、シチリア人の本質というのが窺え、美しいと思うのです。

この言葉は、シチリアの貧弱な庶民の暮らしを見たピエモンテ(新政府)の使者が、しきりにシチリア島市民の生活の向上を図るべきだと訴えつつ、新政府の元老院議員へのオファーをサリーナ公に持ち掛けるシーンで出てきた台詞です。

サリーナ公は、悲惨な歴史を持ち、今だ生活水準が苦しい現状にあるシチリアを恥じらいと共に認めながらも、その厳しい環境にある得難い美しさと傲慢さを肯定しています。

作家の塩野七生氏はエッセイでサリーナ公の向上心のなさを軽蔑していましたが、私は、歴史の大きな流れに身を任せながら、シチリアの晩鐘を聴き過ごし行くその凋落の有様こそに、イタリア人のみならず、世界中の人々を魅了する『滅びの美しさ』があると思うのです。


”サリーナ公爵と山猫の魅力”

たしかに、地位ある人物が自分の能力を活かさず、国のために動かない、というと、褒められたことではないのでしょうが、そう謂った政治的文脈だけで『山猫』を観るのは、本質的な部分を理解していないように思えます。

貴族的な人物とは何か、というと、私には、善し悪しがあるでしょうが、『文化的に洗練された、高貴で傲慢な人』であると思えます。サリーナ公はまさにその典型であり、時代に抗うなどといった泥臭いドラマは、彼の中にはあり得ません。

そこには、徹底したニヒリズムがあり、プライドがあり、何より、超然とした高潔ささえ超克されているのです。

無論、彼は野望を抱く人文的ダイナミズムを否定している訳ではありません。それは、作品の中のタンクレディへの好意によって、示されています。

私自身は一般人ですから、サリーナ公(ランペドゥーサ氏の思い出)を想像するほかありませんが、静である公爵と、動である甥の対比が、この『山猫』に活力を与えているとも思うのです。

『山猫』については、私は話したいことがとても多すぎるので、おそらく加筆や、別記事で述べることもあるでしょうが、一旦ここで筆をおきます。


監督:ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)
公開:1963年3月28日

詳しい概要はウィキペディアをご覧ください。

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