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田原さんを知ったときのこと

田原総一朗さんとお仕事をしていると、いろんな方から「どうやって知り合ったんですか?」と聞かれる。

いちばん最初に田原さんのことを知ったのは、高校時代にさかのぼる。2010年ごろだろうか。

『情熱大陸』に出ていた田原さんを観て、ジャーナリストという枠にはまらない突飛な人生を歩まれていることに衝撃を受けた。

元々は映像のディレクターとしてスタートしたこと。

フリーセックス集団を取材するために自らもカメラ片手に全裸で乱入し一発かましたこと。

深夜の討論番組「朝まで生テレビ!」の司会として国民的な存在になったこと。

などなど、こんなおもしろいじいさんがいるのかと感動した。

そして、私の進路を決定づけたといっても過言ではないのが、BSテレ東の番組『田原総一朗の仰天歴史塾』である。

この番組は、日本史に造詣が深い田原さんがひたすら日本史について語るという趣旨なのだが、興味深かったのが大学生とディスカッション形式で進むところである。

東大や早稲田、慶應といった首都圏の名門大学の学生が10名ほどスタジオにいて、輪になっていた。田原さんはその輪の中で、大学生たちと目線を同じくしてディスカッションしていたのである。

歳が二回り以上離れている、孫世代の若者を相手にしているのだが、違和感がない。見た目こそご老人であるものの、魂が若く、精神レベルで場に同化していると感じた。

この様子を見て「この人にいつか会ってみたい」と思うようになった。

このころは「朝生」も「サンプロ」も観ていなかったのだが、田原総一朗という人間に興味を持った。

ちょうど大学受験の勉強をしていた時期だった。なんとなく東京の大学に行きたい、政治やジャーナリズムについて学んでみたいと思っていた。

そんな時に見つけた田原さんが早稲田大学の卒業生と知って、私も早稲田で学んでみたいと強く思うようになったのである。


学生時代に田原さんと(2015年ごろ)


浪人を経て、2014年の4月に早稲田大学の社会科学部に入学した。

そして早稲田で田原さんが主宰していた「大隈塾」の塾生になる。「塾」といっても、早稲田大学の正式な講義とゼミであり、単位が出る。田原さんは早稲田の特任教授として教鞭を執っていた。

ここで初めて生・田原さんとお会いすることになる。

早稲田での田原さんは、高校時代にテレビで観た時のままだった。学生からのどんな質問にも本気で返す。

時には挑発するように煽り、学生とも激しくやり合う場面もあったが、底には人への興味や優しさがあるように感じた。

当時は大教室に講義生がたくさんいて、近い距離でお話する機会はなかった。当時の私も、たくさんいる講義生の中の一人だった。

だけどある日、キャンパスを歩いていたら、田原さんが構内の喫茶店で休憩されているところを見つけて、突撃したことがある。

今から思えば冷や汗もので、無礼極まりないが、至近距離で田原さんに質問をぶつけた。

すると田原さんは、私の質問にテレビや講義と変わらない調子で答えてくれたのを、今でも鮮明に覚えている。


今では一緒にお仕事をしています


卒業後、私は就活が上手くいかず、大学院への進学を目指したり、政治の世界に足を踏み入れたり、しばらくフラフラした。地に足つかず精神的にも重かった時期である。

そうこうしているとコロナ禍になった。かつて足しげく通った、早稲田にある喫茶店「ぷらんたん」が存続の危機になり、そのクラウドファンディングの運営に関わることになった。

そこで私は、学生時代に教えを受けた田原さんに、事務所を通じて支援をお願いした。田原さんは快諾してくださり、支援のみならず応援メッセージを寄せてくれたのである。おかげでクラファンは大成功した。

クラファン後、なんと田原さんが食事に誘ってくださった。そこで学生時代以来久しぶりに田原さんと再会を果たし、初めて近い距離でじっくりとお話する機会をいただいたのである。

そこで政治の話、田原さんの人生の話、自分の中にある日本や社会に対して思うことを、そのままぶつけた。

田原さんは「君はおもしろい、また話そう」と言ってくれた。

そうして始まったのが、田原さんと若者の対話の場「田原カフェ」だった。

ちなみに今だから言えるが、「田原カフェ」を始めたころ「どうせ上手くいかない」と周りから散々言われた。

たしかに高齢の田原さんの話を聴きたいと思う若い人は今の時代いないと思われても仕方ないのかもしれない。

だが始めてみたら毎回大入り満員で、大物のゲストが次から次へと「ぜひ出たい」と申し出てくれて、お客さんも関東圏以外から泊りがけで参加する人もいるくらいの、全国的に知られる会へと成長した。

私のような何者でもない、無名の若造に賭けてくれた、田原さんの寛大さのおかげだと思っている。

10代の頃に憧れた田原さんとお仕事をご一緒できるのは、とても幸運だと思う。というよりも、不思議な気持ちのほうが強いかもしれない。

もっと言うなら、かつて私が感じた田原総一朗という人の魅力を、もっとたくさんの若い人にも知ってもらいたい。その思いでここまで来た。完全な自己満足である。

それが結果として、田原さんにも喜んでもらえて、仕事になるのだから、いつどんな形で人生の扉が開くか分からない。

昨日も田原さんから電話がかかってきた。

「最近、田中さんに会えていないから寂しいねえ!あなたと話していると生きている実感があるんだよ」

感無量である。

とはいえ先週もお会いしたばっかりなのだが、田原さんが生きている限り、一回一回の会う時間を慈しみたい。






読んでくださりありがとうございました。
「対話の場」を仕事にしています。大きな社会問題と小さな一人一人が抱える問題を、対話を通じてつなげて考える場をつくっています。

▼ジャーナリストの田原総一朗さんと仕事をしています

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