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死後


今夜、彼女に別れを告げる。

彼女との恋に冷めたと言えばそれまでなのだが、
それでは言葉足らずで物足りなく、味気ない気もするけれど、振る側の言い訳でしかないし、悪者になるしかないだろうから、それ以上の思いは胸に押し殺した。


ご飯を食べ終わったら言おう。
いや、やっぱり明日の仕事終わりに言おう。
いやいや、次の休みにしよう。

そんな事を考えていたはずなのに、
言葉っていうものは不意に出るから恐ろしい。



『あのさ、俺たち別れよう』



キッチンで何か、野菜か何かを包丁で切っていた彼女の手が止まる。
僕はリビングでテレビから視線も外さずにその言葉を口にした。


僕の借りてるアパートはカウンターキッチンなので、キッチンからリビングを見渡せる。
彼女がこちらをみている気配がする。


『どうして?』彼女が静かに尋ねる。


『もう、冷めたんだよね』


彼女の視線を感じるが、
僕はテレビから目を離すことが出来ない。


『冷めたって、私に?』

『‥‥うん』


『もう好きじゃないって事?』

『‥‥うん』


僕は激しく後悔していた。
それはやっぱり別れたくないとか女々しいことではなく。
なぜ、彼女が包丁を持っているこのタイミングでこんな話をしてしまったんだろうという後悔。


彼女はヒステリックを起こしやすく、
僕と喧嘩する時は物にあたったり、物を投げたりする癖がある。


前に喧嘩した時は2人で大事に育てていたサボテンを窓に向かって投げ、ガラスを割った。
さらにその前は一日中ゲームをしていた僕に怒って、PS4をテレビに向かって思いっきりぶん投げてどっちも壊した。
僕も悪いが、彼女はやり過ぎるのだ。
さすがにあの時は僕とSONYに謝って欲しいと思った。サボテンはまあどうでもいいけど。


話は戻るが、つまりこの状況は非常に危険だ。
殺傷能力としては我が家でNo.1のアイテムを、
No.1の使い手が握り締めている。
サボテンもPS4も殺傷能力としてはまあまあ上位のアイテムではあるが、包丁とは比べ物にならない。
でも言葉は不意に出るものだからしょうがない。



どのくらいの沈黙の時間が経ったかわからないが


案の定、僕は彼女に殺された。


彼女が急に何かを叫びながら、包丁を僕に向けながら走り、僕を刺した。

泣き叫びながら、涙と鼻水とよだれを出しながら、僕の血を顔に浴びながら、鼻息を荒くし、
何度も何度も僕を刺した。

何度も何度も刺した後、彼女はソファに座ってテレビを見ているのか見ていないのかは分からないけど、顔をテレビに向けて項垂れている。



何かで読んだことがある。
人は死んでも脳はしばらくの間は活動を続けると。

刺された回数と流れている血の量からして僕は確実に死んでいるけど、どうやら脳はまだ活動を続けているらしい。

貴重な体験だなあ、と意外なほど冷静にこの状況を理解している自分に笑いたくなる。
まあ死んだから笑えないけど。


しばらく放心状態だった彼女は、少し冷静になってきたのか、僕の方を見つめながら涙を流し、謝罪の言葉を並べている。

うーん、なんか悪いことしちゃったなぁ、と自分が被害者の殺人事件をまるで他人事のように考えている自分もやはり冷静ではないのかも知れない。


あーあー、そんなに泣いちゃって。
笑った顔が可愛いのに。
でも人を殺した後に笑えるわけないか。
つか、早く警察と救急車呼んだ方がいいよ。

語りかけるも、語りかける術が無い。



涙を流し続けていた彼女は急に立ち上がった。


おっ、やっと通報するのか?と思った矢先、
急に立ち上がった彼女は、
その立ち上がった勢いを利用し、
インドの伝統舞踏 バラタ・ナーティヤムを踊り出した。


‥‥‥え?


なぜだろう。
人は自分の理解を超えた現象を目の当たりにすると逆にどんどんと冷静になる。

まさか人生が終わった後に、人生で一番驚く事になるとは思わなかった。皮肉なもんだ。

なぜ彼女はこの状況で、ちょっとコミカルとも取れる踊りをしているのだろうか。
僕の知らない弔い方なのか、償い方なのか。
彼女の家庭は無宗教のはずだったと思うのだが。


1つだけわかることがあるとすれば、
彼女は少し生き生きとした顔で踊っているという事だ。清々しいと表現しても良い。
こっちは死んでるのに。


一連の流れを一通り踊り切った彼女は、
良い汗を流しながら、ようやく救急車を呼んだ。


数分後に家にやってきた救急隊員は、僕の姿を見て少しえずいた後に僕を担架に乗せて救急車に運び入れた。

どうやら彼女はパトカーに乗せられたようだ。
とんだサイコパス女だった。


僕を運び入れた救急車は、
病院へ向けて動き出した。


車内には運転席に1人、僕の横に2人の救急隊員が乗っていた。

『にしても、この仏さん、すげーな』

30代くらいの精悍な顔付きの隊員が話しだす。


『ですねー、久しぶりに見ましたよこんな遺体』

20代半ばくらいの先程僕を見てえずいた後輩隊員が返す。


『にしても、何したらこんな刺されんのかね?』

『まあ浮気でしょ、なんかチャラついてそうだし、家もなんか女子受け狙った感じでしたもん』

『それな。浮気した女の数だけ刺されたか』

『7、8人くらいすかねぇ、やるなあー』


なんだコイツら。まじか。
めちゃくちゃ人見知りで、刺された彼女だって2人目にお付き合いした彼女なのに、まじなんだコイツら。


『やっぱ女遊びは気をつけなきゃなぁー』

『とか言って先輩、この前マッチングアプリでめちゃくちゃ若い子とデートしてそのままホテル行ったって話してたじゃないっすか!』

『あの日はマジで調子良かったのよ、おれ。』

『奥さんにバレたら刺されますよ?w』



嫌いだわぁ。
だから体育会系は嫌いなんだよ。
刺されて死んでる奴の前で、それ言う?
日々人命救助に命懸けで働いてくれてるのは分かってるよ、分かってる上で嫌いだよ。
それを笠にしてめちゃくちゃ遊ぶしな、貴様ら。
命懸けだから性欲も高まるってか!
そりゃそうか!ご苦労様!


でも。お前ら人命救助の仕事中に、なんて話してんだよ。ん?、おれ死ん、でるから、仕事外か、、


『にしても、どこの病院も受け入れないっすね』

『あー、あれだよ、今日サッカーの日本代表戦』

『あー!そっかそっか!』


え?そういう、もん、なの、?、


『今日勝てばW杯行きが決まるんすよね?』

『そうなんだよー!お前ネットニュース見て絶対おれに結果言うなよ、家で録画してんだから』

『え?w先輩意外とそういうの神経質なんすね』


『当たり前だろ!結果を知らずに録画した試合を酒飲みながら見るのが楽しみなんだよ!』


『へぇーー繊細!』


いや、べ、に、それ神け、い質でも、、繊さ、いでも、な、、ぃ、、


『あ、受け入れ先見つかったっぽいすね』



『よしよし、さっさと戻って寝るベェ』



『ですねー。あ、でもその前に、、』







『あぁー、そ、だそ、だぁ、、、』








『でぇ、、、しょ、、、!、、、、』




『、、、、、、、、、、、、』












2ヶ月後。
僕は病室のベッドの上で目が覚めた。
僕が目覚めた事に気が付いた看護師が急いで医師の先生を呼びに走った。

先生曰く、僕が病院に運ばれた時にパッと見で、あ、こりゃ確実に死んでるわ、と思ったが一応色々確認しなきゃいけないから診始めたら、
嘘、脈あるじゃん!となったらしい。
9箇所も腹部を刺され、内臓が酷く損傷した状態で一時心肺停止になったにも関わらず、ここまで回復するのは奇跡としか言いようがないらしい。

僕は先生の話を聞きながら、
彼女のあの不思議な踊りを思い出していた。
数ヶ月後に退院した後、バラタ・ナーティヤムかな?と色々な踊りを調べて思ったが、たぶんまた違う踊りだった気がする。
でも正直、今とってはどうでもいい。
それよりも先生に、何よりも、どうしても一番に聞きたい事があった。




『あの、日本代表って勝ちました?』