平和の代償

戦争のない世界はほとんどの人々の願いである。きっと。
日本は、しばらくやっていないが、それは戦争行為によって得られるものがないと思っているからで、経済戦争にしろ、経営にしろ、ヤンキーの抗争にしろ争いが尽きることはない。

漠然と平和かま尊いと教育され、そう思い込まされているが、怒りな妬みが尽きない限り、そのエネルギーのベクトルが同じ方向に向いたとき大規模抗争(戦争行為など)が起きる。

力こそ正義と唱えるメガトロンが正しいとされるときはすぐそこにある現実だろう。

対話による和平という綺麗事は、ストーリーの中でこそお涙頂戴な1シーンであって、現実には有効ではない。人が利己的で、個の幸せを望む限り、衝突は避けられない。

韓国で徴兵制に疑問の声が上がるのも、性転換者のオリンピック参加に悲鳴が上がるのも詮無いことだ。  

性別や年齢、国籍などで区別するところから綻びが生まれている。個々の能力を定量的に測定、記録、瞬時に計算できる現代において、これまでの大雑把な分類で何かを区別すれば不満の温床にしかならないのだ。

結果、性別が女の活躍が減るとしても能力だけで競技、兵卒を選ぶのが新世代の価値観だろう。様々な能力を持つ生き物を幼稚な分類方法で区別するのが無理ゲーなのだ。

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