忘れる、知らないこと
世代が変わると合理的に世界が変わるような気がする。それは人間らしい感情や記憶が一度フラットになるからだと思う。三つ子の魂百までではないけれども、人の感情は変わることを拒んでしまうなと思った。発端はコンビニでタバコを買ったことだった。
20代の頃は200円もしなかったので、参入へのハードルが低かったし、そこかしこに吸殻入れが置かれていた。ジュース代すらケチる日々、飲食の代わりにタバコを吸うことで時間が消費でき、だいたい二日ほどを一箱吸うのに使ったので食費を削るのに丁度よいと思って吸い始めた。
今や値段は3倍に迫るほどで、周囲からの悪感情にさらされている。新規参入者は自然と少なくなっており、嫌悪感の醸成にはメディアや飲食店も大いに活躍している。
次第に吸っていた人も止めていくのだが、なかなかいなくはならない。一方で若い新規参入者は周囲にはいない。
組織も同じで、昔からいる人は思い出を払拭できずにあらぬ幻想を引き摺りながら在籍している。もちろんたまに昔話が役に立つこともある。だが物事の合理的な評価のためには役に立たない。
フラットに評価したいと思いながら、それを自分に強いることは禁煙よりも大変だ。自分を構成している記憶と深く結びついた何かを破壊することだからだ。記憶を一部だけ破壊するか、新しい関係性を求めて旅立つのか。
紫煙をくゆらせながら己を相憐れむ。