実験動物技術者の僕が伝えたかったこと

医療系の研究施設で働いている。いつもこのワードから始まるタモツの物語だが、以前は「お掃除系の会社で働いている」という文言からスタートしていた。けれども途中で転職はしていない。どちらも本当のことだ。動物実験をサポートする仕事とはそういうこと。つまり僕は実験動物技術者というわけだ。

今日の話はそれに関わることである。故に上記のワードから嫌悪感を覚えた方は画面を閉じて避難してほしい。せっかく訪れてくれたのに勝手で申し訳ない。決して嫌悪感を否定しているわけではない。そのことは信じてほしい。

ことの発端は上役であるワニ先生からの依頼だった。「インターン生の相手をよろしくね」。めんどくさい仕事が増えてしまったのである。訪れたのは男女2人。お互いに面識はない2人だったが、妙に男のテンションは高めだった。およそ相方に良いところを見せたいのであろう。やる気も高い。こちらとしても都合がいい。お試しとはいえ、業務を進めやすいからだ。

以前の僕ならあたふたしてただろう。けれども慣れたものだ。内心はあたふたしているものの、それを隠せるスキルは身についた。外からは「落ち着いた人」に見えるらしい。それが僕の自信に繋がり、より僕を落ち着かせる。いいアンプ構造だ。インターン生の相手も問題なく終わらせたのである。

だが次の依頼はさすがに動揺した。相手は中学生の女の子だった。体験学習の一環でこの研究施設にやって来た。彼女は変わっていた。普通はお花屋さんやケーキ屋さんに行くからだ。

加えて彼女は無口だった。きちんと返事はしてくれる。礼儀も正しい。けれども無口である。僕の動揺も隠せられるギリギリだ。敬語は崩せない。完全に大人対応で済まさせてもらった。

そして作業も終盤の頃、はじめて彼女から質問がきた。『動物実験を否定する人をどう思いますか?』。ニュアンス的に否定する人を批判しているようだった。これは難しい。変なことは言えない。ここでは大人対応しない方がよさそうだ。適当なことを言って穏便に済ますことは、先の長い中学生には失礼にあたるだろう。

「人の価値観の多様性が発現しただけだと思う。それ以上でもそれ以下でもない」。これが質問に対する僕の答えだ。だが彼女には知らせないでおいた。他人の答えは自分で考える際の妨げにしかならないからだ。それを踏まえて彼女の質問に応えた。

簡潔に伝えた。長くなると頭には入りづらくなるからだ。ただ簡潔過ぎたかもしれない。僕は分かりやすく伝えるスキルは持ち合わせてなかった。おそらく全ては伝わらなかったであろう。でも1%でも伝わればいい。彼女の長い人生の何かしらの足しにでもなれば幸いだ。そんな想いで伝えた。だがしかし本当は全てを伝えたかった。その内容は次の通りだ。

他人の意見は参考にしない方がいい。複雑な問いなら尚更だ。共感を得るための道具にもしない方がいい。まずは自分で考えることをお薦めする。

自分で考えると言っても、それは勉強することでない。まずは今ある知見で自分の思考を巡らせるのだ。本を読んだり、人の意見を聞いて勉強するのはそれからでいい。

この文脈での勉強とは答え合わせだ。しかしそこに正誤は無い。あくまでも対等に比べることに意味がある。自分が間違っていると思えば自分を正せばいい。相手が間違っていると思えば正さなくてもいい。

けれども全ての意見は理解するべきだと思う。共感はしなくていい。淡々と理解だけすればいいのだ。理解できないのであれば自分の考えが足りないと思えばいい。考えるところからやり直しだ。その件を永遠に続けることも「自分で考える」ということの一部だと思う。

しばらくそれを続ければ朧気に全体像の輪郭が見えてくるだろう。僕の現在地はそこだ。その輪郭が何を指しているのか。それは想像できるが確証はないし言語化もできていない。

それが正解の像とは言わないが、一つだけ確かなことがある。それは両極に振り切っている意見は考えが足りていないということだ。考えを深めれば深めるほど、意見は中心に近づくものだ。その理由も考えの途中で得られるであろう。故に両極端の意見は理解できたらさっさと次に進んだ方がいい。おそらく彼女の現在地はここだろう。

人にとって動物実験は必要か。この問いは限りなくトロッコ問題に近い。故に多くの人はこの問いから目を背ける。ありきたりの答えを持つことも背を向けてるとことと同等と思っている。だがそれでいい。この問いは二項対立ではないのだ。目を背けることへの理解も必要となるだろう。

以上が僕の伝えたかったことだ。それを簡潔に伝えた。

・批判はしない方がいい
・自分の考えを育てることが大切
・両方の意見を理解することをお勧めする

ちゃんと伝わったのだろうか。その答え合わせは数週間後にやってきた。彼女から施設宛にお手紙が届いたのである。おそらくカリキュラム内の義務的なものだろう。だが彼女の想いもしっかりと綴られていた。

僕との時間は全体の一部分でしかなかったのだが、手紙の大半がそれに対してのことだった。ほとんどを対応していたワニ先生は文句を垂れていたが仕方のないことである。手紙の大部分は感謝を伝えるものだったが、最後の方の一文に「何か大切なものを教わりました」とあった。

少なからず伝わったと解釈している。すこし嬉しかった。この手の話はあまりしないことにしているからだ。

以前、所属している草野球チームでも僕の職業について軽いもめ事が起きた。そのときは大人の対応で済ませた。めんどくさかったのである。でも正直に言うと語りたかった。語れなかったのは、相手のそこの部分だけは信頼できていなかったからだ。おそらく理解されないだろうと。

この手の話をするには勇気がいる。相手を信頼する必要があるからだ。「貴方なら理解してもらえる」という信頼を相手に寄せないと無理だったと思う。そう考えるとお礼を言うのは僕の方だった。ありがとう。

体験学習で研究施設を選ぶあたり、周りからは変人扱いをされているかも知れない。だがしかしだ、そんな彼女だからこそ僕は信頼を寄せられた。僕は彼女を応援している。どうか少しだけ周りよりも幸せな人生を送ってほしい。考える人が損をしない世の中になってほしいのだ。


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