一度でいいから読んでみたい、AIが気持ちを吐露したエッセイ

医療系の研究施設で働いている。お掃除系の会社からの出向のため、給料はあまりよくない。けれども働き方は変わった。体から頭へ。最初はやらかすことも多かったが、時間と共にマシにはなった。

パソコン操作も覚えた。ブラインドタッチは未習得だが、タイピング速度も向上しつつある。タイプ終わりのエンターキー「ターン!」の気持ちもわかった。

でも周りを見れば僕もまだまだである。見るまでもない。音が違うのだ。キーボタンで奏でるリズムがまるで違う。その中でも、ひときわ素早く大きな音を奏でていたのは、関西弁の部長だった。

部長のタイピングはちょっと変わっていた。使う指は右人差し指1本。そのためキーボードは右上がり斜め30°で置かれている。タイピングしている姿はケンシロウ。北斗百裂拳よろしく文字が打ち込まれていく。もはやタイピング音は『アタタタタタッタ、ホワッチャー』にしか聞こえなかった。

アメリカ式らしい。部長のタイピング方法を上長のカツオ兄さんに聞いたところ、そう教えてくれた。僕はタイピング速度を上げたく、教わったワードをググってみたが、一向にヒットしない。『タイピング アメリカ式』。AIにも聞いてみたが、タイピングソフトの紹介ばかりで話は噛み合わなかった。

いつの間にかAIをネット検索の最終手段として使っていた。世間ではどうか知らないが、僕の中ではすでに生活や仕事の中に入り込んでいる。とはいえ文章作成などのお願いはあまりしない。このnoteもNo-AIだ。

だからといってAIを嫌ってるわけではない。有効と思えば使うだろう。つまりは僕のnoteでは有効ではないと考えている。

僕のnoteをカテゴライズすればエッセイの部類に入るだろう。誰かが言っていたが、エッセイとは告白だ。感想や意見などが主体となる随筆とは違うジャンルだと思っている。その告白の向こう側には人を色濃く感じる。その類の文章を創ることが好きなのである。

きっとAIを使ってもその文章の向こう側には人の気配を感じ取れるだろう。ゴーストライター然りだ。だがそこには違和感も覚える。おそらく僕がAIの
作ったnote記事を出せば罪悪感に悩まされるだろう。

それはエッセイに限ってのことだ。役立つ情報を載せた記事では悩むことも無いと思う。別の記事でも書いたが、人は人に触れたい生物だ。惹かれるものはいつだって人の思考を感じ取れるもの。エッセイとはそこを強く擽るものだと思っている。

もちろん他人のエッセイを読むのも好きだ。役立つ情報なんてものが無くても構わない。むしろ無い方がいい。その文章の向こう側に人を感じ取れればそれだけで満足するのだ。

だからこそエッセイに限ってはAI生成の有無を記載してほしい。できれば文章の向こう側には作者がいてほしいからだ。

たのしく騙されるのもいいとは思うが、『AIがゼロから創作したエッセイ』という事実があるのならば、それは隠さずに表示しておいてほしいのだ。それが分かっているのであれば『AIがゼロから創作したエッセイ』もまた、それはそれで楽しめると思う。

『AIがゼロから創作した、AIが気持ちを吐露したエッセイ』。むしろそれを読んでみたいのである。

なんにせよAIはすばらしい。これからもっと生活に溶け込んでくるのであろう。今はネット検索の最終手段として使ってはいるが、それも将来的には無くなるかもしれない。

わざわざAIに聞くよりも、キーワード検索の内部でAIに活躍してもらえた方がこちらも楽だからだ。

「もしかして、アメリカ式タイピング? それはですね…」と、そんな検索結果が出てきてほしい。きっとカツオ兄さんに騙された僕を慰めてくれるだろう。そのときのAIの気持ちも知りたいのである。


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