彼女は滑って転んで気を失った

お掃除系の会社で働いている。役職は下っ端。マンパワーが売りのモブ社員。それが僕だ。先月から新しい仕事場で働いている。異動というものをはじめて経験してみたが、特に問題なく順風な社会人生活を送れている。

新たな職場は縦割り組織だった。4つのセクションでは固定された担当者がそれぞれ配置されている。配置換えは基本的に行われない。セクションごとに作業内容も変わってくるので、同じ職場に属しながらも全ての仕事をこなせる者はいなかった。

「ここだけのはなし、タモツ君には全ての仕事場をまわってもらうからねー」。新しく僕の上司となったドライブ係長はそう告げた。厄介な役割をもらってしまった。

なんでも僕を皮切りに仕事場の改革を進めるらしい。

この職場の平均年齢は、僕の年よりも遥かに高い。干支で2回り上も珍しくない。干支で換算すると話が早い世代というわけだ。そこへ投入される無口で真面目で従順な僕。まさかスパイ的な役割を担わされてるとは誰も思わないだろう。

ドライブ係長は恐るべし。まずは策略のいろはを教わった。ちなみに僕が新たに配属された表向きの理由は「男」だから。職場の人数は僕を入れて8人だが、そのうち女性は6人。ハーレムを嫌がった係長が、とりあえず男の僕を引っ張ってきたというわけだ。

この会社は女性が多い。今度の職場にも年の近い美人の姉さんは二人もいる。ばんざいハーレム。そうは思えない駄目な僕。今はスパイ業務に集中するのであった。

任されていたSエリアの仕事は覚えた。基本的には一人で回している。補助的に手伝ってくれているパートの眼鏡おばさんとのコミュニケーションも良好だ。彼女も無口な人だから、どこかにシンパシーを感じる。

慣れてくると時間も余る。居室での休憩時間も増えた。「そろそろ自分で新たな仕事を見つけてみてはどうかな」。係長は僕に言った。望むところだ。

前の仕事場でも同じような場面はあった。そのときは『仕事が無いとき用の掃除場所』をお掃除することで乗り越えてきた。

だがこの仕事場にはそんな都合の良い場所は存在しない。文字通り新しい仕事を見つけなければならなかった。どうしたものかと考えた結果、いたずら心に火がついた。

廊下は綺麗だが汚かった。毎日水洗している廊下だが落ちない黒ずみは在ったのだ。長い月日を掛けて徐々に徐々に黒色が沈着したのであろう。おそらく誰も気がついていない。だが僕はその黒ずみを落とす方法を知っている。前の職場で教えてもらった方法だ。

その方法を実践するにはさほどの時間もかからないが、その間は通行禁止になる。薬剤で廊下がヌルヌルになるからだ。他にも様々なハードルはあったが、準備の末にシミュレーションではオールクリアとなった。

『急に廊下が超綺麗になったらおもしろくね?』。そのいたずらは無事に完遂されたのである。

あまりの変わりように驚きを通り越して皆ひいた。あまりおもしろくない結果となってしまった。

ひとり驚いて喜んでくれたのはパートの眼鏡おばさんだった。「どうやったの、おしえて!」。めんどくさい仕事を増やすだけであった。しぶしぶ教えて差し上げると、さっそく次の日から超綺麗な廊下のエリアは増えていった。

眼鏡おばさんはパート社員だ。退社時間は早い。いつもギリギリまで仕事をして、居室でくつろぐことなく終業時間ぴったりで帰っていく。「おつかれさまでしたー」。彼女の別れ際の挨拶を、僕は正確な時報のように感じていた。

だがその日の時報は鳴らなかった。すこし遅れて居室に入ってきた眼鏡おばさん。「すみません、滑って転んで気を失ってましたー」。

なんですと? 係長は立ち上がり心配の声を掛けるも、かぶせ気味に「大丈夫ですよ。おつかれさまでしたー」と言い残し、彼女は居室をあとにした。

またやらかしてしまった。彼女が気を失った責任は少なからず僕にもある。100ではないにしろ、20くらいはあのではなかろうか。滑りやすく危険なことは伝えていたが、彼女はしっかりと受け取れてなかったのだ。

もうすこし丁寧な説明をするべきだった。誰も僕を責めることはなかったが、このことは重く受け止めておこうと思う。反省。

それにしても彼女は優しい人だった。

無口な人だから、おそらく居室での会話は全て事前に準備されたものだろう。おかげで僕らは過度の心配をする必要は無くなったのだ。

もしかしたら「気を失った」のも冗談だったのかもしれない。腰や臀部を強打した可能性もある。ついた手を痛めた可能性だってある。それを隠すためだったら平気で冗談を言えてしまう人だからだ。

すべては僕ら職場の人間を心配させないための配慮。そう思えてしかたない。僕にできることは何だろう。とりあえず残りの汚い廊下は早急に超綺麗にしておきます。


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