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天命とか、たぶん一生わからない気もする

自分がちょっと使ってみた言葉が、自分に対していろいろ波紋を投げかけているのを味わって書いてみました。


自分も50歳を過ぎてこの言葉使ってみた

「50にして天命を知る」

最近、ふとしたことから、この言葉を使ってみて、あたらめて考えています。

自分も昔はガチで運動とかやってましたが、あんまり運動やるの好きじゃないし見てるほうが楽しいな、と思って「運動はやるもんじゃない、見るものだ」など思ってました。

この考えに至ったのを「50にして天命を知る」ということで周りの人に説明してみたのですが、改めて考えると違和感ありました(^-^;

天命という大それたものではなくて、単に自分の得意じゃないことを認められるようになりました、的な話ですね。

自分ができないことは、時間を重ねると一つ一つわかってくるんですけどねぇ、でも、「天命」というほどの方向性はまだまだちっともわかりません。

実は天命どころじゃない年代

論語の時代と違って今は不断の変化を求められる時代のようです。

自分たち50代は、どちらかというと今は「リスキリング」の世代で、なんなら今まで培ってきた知識や経験はクリーンに消去して、新しい分野で新しい知識を使って活躍することが求められたりします。

ほとんど、工業製品みたいですね。

OS再インストールみたいな形で新しいことを外からの働きかけで開始するのは、天命とはまったく真逆な感じがします。

積み上げた先に智慧がある、というよりは、知識も智慧もどんどん進化、バージョンアップするので変化し続ける方が有利、という感じです。

天命は知っている人は若いころから知っている

考えてみると、天命を知っているのではと思われる人はそれこそ年代に関わらず自分の天命を知っているように見えます。

わかりやすいのは、社会企業家の方々みたいに強烈な使命感をもってこの世界をこうしていきたいと考え、行動に移している人たち。自分と自分の考えを信じて行動できる強さも素敵です。

とはいえ、彼ら彼女らが行動しているのは、自分の意思はないけど「すべきこと」としてやっているようには見えません。自分が関心があって、やりたいと思ったことが結果的に世の中に役立つことだった、というようにも見えます。

そして、それに出会うのが、若い時もあれば、年を重ねた時に出会うこともある。結構偶然の出来事かもしれない、と見ていて思います。

自分のやりたいことに出会う人生もあれば、出会わない人生もある。

10年後の自分を考えたが、驚くほど違う

考えてみると、自分の人生も驚くほど予想外の方向に進んでます(^-^;

30代のころ、「40代になったらこんな人生かな」と想像はしましたが、職種が大きく変わって全然想像とは違う種類の仕事をしてました(^-^; プライベートでも全然想像とは違う生活をしていました。子供の部活関係の活動がっつりやりました。

40代のころ「50代になったらこんな人生かな」と想像しましたが、仕事は同じですが会社も周りの人間関係も大きく変わってました。

それはそれで今の生活は楽しいのですが、全然想定外。

まあ、誰しも想像通りには行ってないと思います。

周りにも、同じような年代で、人生を大きくチェンジする方々がいたり。

自分の思う天命に従って動いている人もいれば、自分のように天命どころじゃなく想定外の方向に行っている人もいるかもしれません。

天命がわからない人も結構いるかも

思うに、天命がわかる人、人生もあれば、一生天命とか無縁で過ごす人生もあるのかも、と思います。天命とか関係ない人の方が全然多い世界。

論語で書かれた世界はある人には当てはまるかもしれないけど、そうでない人がたくさんいる世界。本当は、昔から天命とか関係なく生きている人が多すぎで、なのでわざわざ論語みたいな「正しい生き方」が書かれたのかもしれません。

というか、道徳が書かれる、言われるのは世の中の大勢は真逆だから。いつもそう思います。

自分は飽きっぽくて変化依存症のところもあるので、天命とかわかってしまったら退屈するかもしれません(^-^;

その時々で感じるままに生き、人生が終わるときに「まじ、そんな人生だったか!」とかわかるぐらいがちょうどいい感じに思いました。

おわります。

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