「自分を停止させる」ことに興味がある。

意図的に自分を停止させたい。心を止めたい。自分と世界に無関心になりたい。無反応になりたい。純度100%の観察者になりたい。

そんなのは生きているといえないと思うかもしれない。確かにそうかもしれない。
そんなのは人間ではないと思うかもしれない。確かにそうかもしれない。
そんなのは楽しくないと思うかもしれない。確かにそうかもしれない。

そうだとしてもオレは、自分を停止させることに興味がある。

とはいえ何をもって「自分が停止した」といえるのかはわからない。ただそこに向かっていくことで何かおもしろいことに出会える予感がする。
それは自分が壊れることかもしれないし、さらなる絶望を味わうのかもしれないし、心地よい世界かもしれない。

そこに何があるのかには興味がない。
そこに向かっていくことに興味がある。

心から、メンタルモデルから、精神から解放されると何が残るのか。
それは退屈なのか、絶望なのか、至福なのか、無なのか。

ところで、どうやったら「自分を停止させる」ことができるのだろうか。
瞑想?山に籠る?断食?出家する?なんだかどれも違うような気がする。

オレは人間という動物的なものをそのまま残しつつも、自分というものを停止させたいのだ。プログラムされた反応のみで生きていく。

だからいまオレは、たくさんのルーチンを作っている。習慣で埋め尽くそうとしている。とりあえずそんなところから始めている。陳腐に聞こえるかもしれないけれど、何事も実験だ。やってみないと何が起こるかわからない。

そもそもオレが一番、オレが何をしたいのかわかっていない。

自分の奥底から湧き出てくる興味関心の衝動に従っているに過ぎないから、理屈も論理も、整合性も効率も、有効性も確信も、道徳も倫理もない。

衝動だ。因果の衝動だ。
ビックバンで宇宙がはじまった瞬間から決まっていた、オレに用意されていた衝動だ。

それがたまたま「自分を停止する」っていうだけに過ぎない。
水が100℃になれば沸騰するのと同じように。
オレはそうなっているだけだ。

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