見出し画像

自責でも他責でもない「無責」という考え方

おはようございます。投手のエラーが自責点にならないのはおかしいと常々思っています。たむです。

今日は無責的思考について話していこうかなと思います。自分は物事をかなり楽観視してとらえられる方なのですがその理由を考えたときに「無責」という考え方が心を楽にしてくれているんじゃないかと思ったのでまとめてみます。

責任の行方

何か失敗をしたときにその責任はどこにあると考えるべきでしょうか。一般的にその責任の矛先として自分か他人かという「自責」「他責」の2つがあげられます。

多くの人が原因は自分にあると考える「自責思考」のほうが優れた、人として優秀なマインドセットであると考えていると思います。「他責思考」で他者に責任を擦り付けたところで状況は何も改善されず、むしろ周りをネガティブにさせ、信頼を失うことにもつながりかねません。そういった意味では自分に原因があると考えたほうが自分の行動次第ですべてを変えられ、自身の成長にもつながるため「自責」と「他責」では前者のほうが優れているといえるでしょう。

ただ、この「自責思考」は行き過ぎてしまうと「自分がすべて悪い」と抱え込んで鬱になる、自己肯定感を過度に下げてしまい何事にもチャレンジすることができなくなる、といった弊害が生まれます。

だからといって他者に責任があると考えてしまうことは自分の価値を下げてしまいます。

そこで誰かに責任を押し付けることなく、全員がハッピーになれる第三のアプローチが「無責思考」です。

「無責思考」とは

「無責思考」とはいい意味で「責任の所在をうやむやにする」思考法のことです。この言葉だけでは伝わらないと思うので例を挙げて考えてみましょう。

あなたが親だとして、あなたがテーブルに置いたオレンジジュースを子供が床にこぼしてしまいました。この時の責任の所在を考えてみましょう。

「子供の手を置くところにおいてしまった自分が悪い。もっとテーブルの中央に置くとか、高いところに置くとか工夫するべきだった。子供が責任を感じて泣いてしまっている。親として情けない。」

こう考えるのが自責思考です。考え方としては正しいようにも思いますがオレンジジュースをこぼしたくらいでこう考えていては疲れて子育てなんてできません。

「ジュースが置いてあり当たったらどうなるのか、くらい認識できないのかな。どうしてうちの子はこんなにできが悪いのか。叱ってちゃんとしつけなければ。」

こう考えるのが他責思考です。あまりいい考え方とは思わない人が多いのではないでしょうか。自分は良いのかもしれませんが言われた子供の自尊心が傷つき成長が阻害される可能性があります。

「ジュースがこぼれてしまった。でも今日はそういう日だったのかもしれない。端っこにおいてはいたが飲むたびにテーブルの中央になんておいていられないし、子供は動き回ってなんぼ。誰も悪くないから早く片付けよう。」

この考え方が無責思考になります。自分も悪くないし、相手も悪くない。なるべくしてこうなってしまったのだから今できることはこれを処理すること。今日はこういう日と割り切ってしまうことで全員がハッピーな状態で次の行動に移ることができます。

例は少し大げさだったかもしれませんがこういったように考えることで素早くその状況に応じた対応をとることができます。

運命にすべての責任をなすりつける

無責的に物事を考えるために僕がしていることは
万物を運命や神様のせいにして割り切る
ということです。たとえ遅刻をしてしまったとしても
「今日は遅刻をしてしまう日だと決まっていた。だからこれは筋書き通りなのだ。」と割り切ります。神様だとか運命だとかよくわからないものにすべての責任を押し付けることにより過度に自分を責めることなく、ハッピーに暮らせます。ただこれを他人に言い訳として話すとスピリチュアルなヤバいやつというレッテルを貼られるだけなので心で思うだけにとどめておきましょう。

もう一つの方法としては北海道弁を使いこなす、ということです。
「押ささる」「食べらさる」
一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。これは標準語にはない表現で「押すつもりはなかったのに押してしまった。」「食べるつもりはなかったのに何かの力が働いて食べてしまった。」という意味になります。
押したのは自分であるにもかかわらず、さも自分には責任がないようにすることができます。
この表現は他責を表すことができるので標準語として浸透してほしいなあと心から思っています。

まとめ

僕自身、受験に失敗したとき過度に自分を責めてしまうことがありました。そんな時に高校の講演でよくわからないおばちゃんが話していたこの考え方を思い出して、気が楽になりました。
「受験に落ちたのが自分の努力不足なんて当たり前なのだから今さら自分を責めてもしょうがない、受かった大学でできることをしよう。」
このように切り替えることができたおかげで現在、充実した毎日を送ることができています。

常に無責思考だとなんの成長も見込めないのでもちろん使う場面は時と場合によります。ただあまりいい結果ではなかった時にこのように考えられるだけで自分を責めすぎず精神的に安定し、ハッピーに生きられるのではないでしょうか。全部を神様のせいにする、そんな方法もあるんだよということを知っていただけたら幸いです。

読んでいただきありがとうございました。ではまた!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?