贖罪 悪
【小説】
あの鴨に会いたくて、もう何日も池の畔のベンチに座っている。
冬が近づいて、池には鴨の数が増えてきている。どれがあの鴨だったのか僕には見分けがつかない。会って何を話したいのか、そもそもあのとき僕らはほんとうに会話を交わしていたのか。もうひとりの僕が言うように鴨はただ餌が欲しくてガーと鳴いていただけかもしれない。僕の頭のなかで都合よく翻訳をしていただけなのかもしれない。それでも僕はもう一度あの鴨に会って話をしてみたかった。
池に浮かぶ無数の鴨やボートを漕ぐ人たちをぼんやりと眺め、色づいた木々のマゼンタとイエローの配合を推測しながら僕は時間を潰した。
「無駄なことさ」もうひとりの僕が言う。
「そうかもしれない」僕は素直に認める。
「でも仕方ない。君の心はいま、あんな鴨にさえ頼らなければならないほど弱っているんだ」
そう言われてしまえばそうかもしれない。
「ただ、気をつけるんだ。あの鴨は〈正しき者〉じゃない」
「〈正しき者〉ってなんだよ」
「〈正しき者〉は〈正しき者〉さ。〈悪しき者〉の対極に在る」
「あの鴨が〈悪しき者〉だって言いたいのか」
「さあね、少なくとも〈正しき者〉じゃないってことさ」
僕は頭を振って、もうひとりの僕を意識の底に追いやった。
気づくと一羽の鴨が足下まで来ていて、首を傾げながら僕の顔を見あげていた。
「きみかい?」
「久しぶりだな。一週間ぶりか一年ぶりかはわからないけどね」
「正確に言えば21日ぶりだよ」
「へぇー、そんなことよく覚えてられるね。オイラは明日のことでさえ、忘れちまうよ」
「僕だって明日のことはわからないよ」
「ふむ」鴨はくしゃみをひとつして左の足ヒレで器用に首のあたりを掻く。
「明日のことがわからないって?何を言ってんだい。あんたの明日は今日と寸分違わないよ。それともなにかい、明日ってやつがあんたを変えてくれるとでも思ってるのかい?」
僕は返す言葉がなく、黙って鴨の黒いくちばしを見つめる。
「そんな期待は捨てることだね。明日なんて今日の焼き直しだ、いや焼き直しですらない。毎日毎日少しずつ劣化しているんだ。だからオイラたちは忘れることにしてるんだ。昨日の次が明後日だろうが、明日の次に今日が来ようが知ったこっちゃない」
鴨の言うことには不思議と説得力があって、僕はあることを聞いてみたい衝動に駈られた。
「じゃあ、生きる意味はどこにあるんだい」
鴨はうんざりした表情を浮かべ、ついておいでというように首を振り、池に向かってペタペタと歩きだした。僕はベンチから腰をあげて鴨の足どりを追う。鴨は柵のすき間をするりと抜けて、ぽちゃんと池に浮かんだ。僕も柵をまたいで池の縁に立つ。
「なにやってんだい。いいから池に入りなよ」
鴨のあきれ気味な声色に気圧され、僕はそろりと右足を水面につけてみる。すると何かに吸い込まれるように右足が水中に没して、続いて全身が引きずりこまれた。
深い。僕の身体は鉛のようにどんどん沈んで、水面から深く遠ざかってゆく。
おかしい。この池がこんなに深いはずがない。腕をかき足を蹴って、水面を目指そうとするけど、身体は沈んでゆくばかりだ。
キラキラとひかる水面に手を伸ばしながら、僕はこらえきれず肺のなかの空気をぜんぶ吐き出した。同時に大量の水が肺を満たし、僕は苦しみのなか意識をなくした。
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