贖罪 失

【小説】

 

 彼女と暮らし始めて四年目の冬。僕らは初めて喧嘩らしい喧嘩をした。現象自体は僕にとってはささいなことだったけれど、彼女にとってはふたりの関係の根底を揺るがす大きな〈事件〉だった。

 〈事件〉の詳細はこうだ。
 その頃、彼女は職場のことで悩んでいて、僕はよく彼女の相談を受けていた。僕は彼女の抱える課題を自分の身に置き換えて検証し、解決の基本軸を定めたうえでもう一度彼女の身に置き換え直して、彼女の思考法や行動理念を加えて世界にひとつだけのカスタマイズされた解決策を考えた。
 こうしたやり取りはたいていの場合彼女にとても感謝され、僕らはそのたびに心の距離を縮めた。
 でも、その日、僕はミスを犯した。いつものように綿密な取材を重ねて1ミリのズレも生じないように課題を共有し、僕は彼女に解決策を提示した。彼女は体調が優れなかったのか、あまり良い反応を見せず、僕の案に対して幾度も検証の言葉を投げた。僕は一つひとつ丁寧にそれに返答をした。そして、僕らはその問答に長い時間を要した。僕は少し疲れてきて、ソファの背もたれにだらしなくもたれかかり、いくぶん投げやりにこう言った。

「大丈夫、大丈夫。きみならその案でうまくできるよ」

 でも、彼女はまだ納得してはいなかったのだ。

 彼女の表情は見る見るかたくなり、大きく見開いた瞳には涙が滲んできた。そしてすぐに顔を隠すよう下を向いて、ひとりで課題に向き合おうとした。
 僕は自分のミスをすぐに悟った。彼女は長年背負ってきた重い荷物をついには僕に預け(コインロッカーへの一時預けではなく)、何年も絶対の信頼をおいてくれていた。僕は彼女にとっての唯一無二の信頼に応えたいと全力で向き合ってきた。でも彼女は重い荷物をまだすべて預けてはいなかったのだ。たったひとつのミスで、長い時間をかけて積み上げてきた信頼が失墜してしまうほど、彼女が抱えてきた荷物は壊れやすかったのだ。

「それはきみのせいじゃないさ。誰だってそこまで完璧ではいられない」
 もうひとりの僕が言う。

「うん、一般論としてはそうかもしれない。でもこれは僕と彼女の関係なんだ」
「それならば、そもそもの初めから無理があったんだよ」
「無理か無理じゃないかは意思の問題だ。そして僕は彼女の過去も未来もすべてを背負うと決めていたんだ」

 でも、結局はもうひとりの僕が言うとおり無理があったのだ。僕はこの〈事件〉をきっかけに、その後、彼女をもっと深く傷つけることになる。まだ修復は十分に可能だったはずなのに。

 

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