贖罪 海

【小説】

 

 あのいい加減なクリニックの院長に出してもらった少し強めのクスリを二日と空けずに使っている。このところ気分の上がり下がりが大きい。原因はわかっている。日々の運動をサボっていることと、酒の飲み過ぎだ。筋肉を鍛えたときに生じる何とかという物質が脳の状態を安定させると言う。理屈ではわかるが毎日は続かない。そして酒。アルコールは飲んでいるときはいいが、覚めたときが恐ろしい。うつむいて歩くどころじゃない。まるで地の底を這うような落ちかただ。そんなときにクスリを使うのだが、だったらはじめから酒を飲まなければ酒代もクスリ代も浮いて健康でもいられるのにと冷静に思う。ただ、理屈じゃなくいまの僕の心はアルコールを欲している。だから毎日のようにどこかの酒場のカウンターの片隅でグラスを手にしている。

 僕と彼女が恋人と呼べる関係になって初めての休日、僕らは海へと出かけた。品川駅で待ち合わせ、京浜急行に乗って終点の三崎口へ。そこからバスに乗り替え、三浦半島の突端へと向かった。10月第一週の土曜日、気温は30度を越えて夏のような暑さだった。
 僕らは気持ちが通じあったばかりだったので、ふたりで見るもの、聞く音、すべてが新鮮に感じられ、世界はふたりのために生まれ変わったようだった。彼女はそれまでの九年間背負ってきた荷物を肩から降ろし、その半分を僕に預けた。重荷を降ろして安堵する彼女は素敵だった。笑顔が光を放ち、口数が増え、繋いだ手の結びかたが力強くなった。
 でも、半日を海で過ごしてそろそろ帰ろうかというときになって、突然、無口になり、手が冷えた。

「どこでボタンをかけ違えてしまったのだろう」
 海からの風を受け、目を細めて彼女が言う。
「もしかしたら初めのひとつから違っていたのかもしれないけど」

 いつもの過去への反芻だ。これまでもよくあることではあったが、やはり、今日のような幸せな一日の終わりにもそれはやってくる。
 僕は隣に座る彼女の手をしっかりと握る。

「ボタンを一度すべてはずしてみよう。ゆっくりでいいから。僕はいつでも君の隣にいるから、あせらず少しずつ、できる範囲でボタンをはずしてみよう」

 彼女は黙って沈み掛けた夕陽を見つめている。僕の言葉が彼女に届いているのかどうかはわからない。さらにいえば、そんなときに彼女が何を考えているのか、想像はできるがまるで自信がない。彼女に関していえば、僕は十五歳の少年のように無知で無力だ。

「その頃の彼女は悩んでいたんだよ」
 もうひとりの僕が言う。
「きみが何を知っている」
「知ってはいないがわかるんだ。彼女はきみに自分の荷物を預けていいのかどうかを考えていた」
「かなり預けてもらったつもりでいるよ」
「本質的に預けたわけじゃないさ、たぶん、コインロッカーみたいなものなんだ」
「コインロッカー?」
「そう、一時預りのコインロッカー」

 僕は一時預りのコインロッカーだったのだろうか。では、どうすれば彼女の抱える荷物を降ろしてあげることができたというのだ。

 岩場に座り落日を眺める、あの日のふたりの後ろ姿が見える。夕陽に染められたそれは悲しい色に見えた。

 

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