贖罪 鴨

【小説】

 

「また、あんたか」
 いつの間にかベンチに座る僕の足下まで例の鴨がやってきて、黒目勝ちの目で見あげる。

「よほど暇なんだな、どうせまた彼女のことでも考えていたんだろう」
 鴨はペタペタと二歩三歩と右へ歩いては、今度は左へと戻る。ペタペタ。

「確かに彼女のことは考えていたよ。でもそれだけじゃなくて、死んでしまったもうひとりの僕のことや確率や条件や運のことを考えていたんだ」
「なんだい、死んでしまったもうひとりの僕って」
「説明すると長くなるんだけど、簡単に言えば、僕の友人がある事故で死んで、それからしばらくして僕の頭のなかに〈いる〉ようになったんだ」
「へえ、妙なことがあるもんだね。でも、そんなこともあるだろうよ、この世界では何が起こったって不思議はないんだから。それよりなにか食べものないかな、コメ菓子とかさ」
「あそこの立て札を見なよ。きみたちにエサを与えちゃいけないって書いてあるだろ」
「やめろよ、そんな最近になって勝手に決められたルールなんて。なぜ、あんたまでがそんなことを言うんだ」
 僕はバッグのなかから食べかけのクロワッサンサンドを取り出して、鴨に見せた。
「なんだ、持っているんじゃないか、もったいつけてないで早くくれよ」
「でも、これチキンサンドなんだ。大丈夫かな」
 僕はサンドをちぎって鴨のくちばしのあたりに持っていく。鴨はそれをついばみ、ろくに噛みもせずにゴクリと飲み込む。
「なにが大丈夫かって?」
「だってこれチキンサンドだよ」
 鴨は黒目勝ちな目をパチクリさせながら舌でペロリとくちばしを舐める。
「あんた、詩人かい? さもなければ動物愛護団体かなにかか?」
 僕は黙って首を振る。
「死んだら食糧さ、みんな死んだら食糧なんだ。それがこの世界の掟だよ。食糧って食うものだろ? 食われるものじゃなくて。だからみんな必死に食って必死に生きるんだ。いつ死がやってきてもいいようにね」
 ……必死に生きる、僕は必死に生きているのだろうか。
「さあ、もっとくれよ、その真ん中の肉厚のところ」
 鴨に促され、僕はサンドをちぎってはくちばしの先に運んだ。頭のなかでは〈必死に生きる〉ことについて考えている。必死に生きるとはどういうことか、それは死を身近に感じている者しかできないことなのかもしれない、この鴨のように。

「そう言えば」
 鴨が僕を見あげて言う。
「この前、彼女に会ったよ」
「えっ」
「この前、彼女がちょうどこのベンチに座って、ぼんやりと池を見てた。いや待てよ、池を見ていたんじゃないな。彼女はなんにも見ていなかった」
「それは、いつのこと?」
「2~3日前だよ。でも2日前なのか3日前なのかはわからないよ、基本的にはいまのことしか考えてないからね」
「それで、きみは彼女に話しかけたのかい?」
「よせやい、そんなことしたら驚かしちまうだろ」

 彼女がこの公園に来ていた。僕はその意味を考えた。僕との時間が濃いこの場所に来たということは、最悪の状況ではないということだろうか。

「もう、その鴨と話すのはやめなよ」
 もうひとりの僕が言う。
「その鴨はさっきからガーとしか鳴いてない」
「なに言うんだ、その鴨は僕と話していただろ?」
「いや、話してなんかいない。きみはさっきから鴨を見ながらひとりでブツブツとつぶやいているだけだ」

 いや、そんなことはない。僕は確かにこの鴨と話していた。そして〈必死に生きる〉ことの意味を考えていたんだ。

 気づくと鴨はペタペタと池まで歩き、少し羽ばたいて水面に着水した。池に浮かんだ鴨は鴨以外の何者でもなかった。
 僕はひとりで話していたというのか……。池に戻った鴨をぼんやり眺めていると、鴨が振り返って言った。

「いつ死がやってきてもいいようにね」

  

 

前回を読む

続きを読む

マガジンへ

 

tamito

作品一覧へ

#小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?