夏休みと赤い星①

【小説】


高校2年の夏休み、僕は父親のコネを利用して、仙台にある天文台でアルバイトをしながら星を見て過ごした。

アルバイトなので重要な仕事は任せてもらえず、さまざまな処理をかけた後の大量の観測データをプリントし、紙のファイルに振り分けて綴じる仕事を黙々とこなした。

日中のアルバイト作業が終わり、日が暮れると漆黒の闇に浮かぶ星たちが僕を待っている。普段、観覧者が立ち入ることのできない巨大な望遠鏡で、観測の邪魔にならない程度に直接星を見せてくれるのだ。

月を見れば、一昨年まで僕らが暮らしていたムーンベースを真上から見下ろすことができる。建造物のひとつひとつがはっきりと見え、住居の灯りに人の生活の匂いさえ感じる。

僕らの生活のすべてだったムーンベースが、こんな風に地球から観測されていたと思うと、なんだか複雑な心境になる。あそこで僕らは友達とバカな話をし、勉強をして、ほのかな恋心を温めていたのに。それがまるで箱庭のなかの出来事のように思えてしまう。

そして、火星だ。月ほどはっきりとは見えないが、いまは一年に一度の地球への最接近時期で、9千万キロまで近づいている。だから火星表面の様子をかすかな点や線で捉えることができる。

「ここに見える点が、新たに築いている火星基地だよ」

観測技師の山中さんがアルバイト初日に教えてくれた。

3年前、月の港で火星へ行く船を見た。僕がそれまでに見たなかで最も巨大で、威厳が漂っていた。この船が半年かけて火星へ行くのかと思うと興奮して身震いがした。そう、僕はいつか火星へ行きたいと思っている。

その時一緒に船を見た友人の笠原は、かねてからの希望通りに造船専門の国立校へと入学し、船のデザインを勉強している。会うたびに笠原は言う。

「火星なんて船の性能を上げるだけで1ヵ月で飛ばしてやる。それよりも、おれはどうやったらケプラー214に近づけるかをずっと考えてる」

入学して半年も経つと笠原は、水を得た魚のように学内を泳ぎまわり、教師や学科の先輩から貪欲に知識を吸収していった。僕がいつか火星に行くときには最新最速の船に乗せてくれるらしい。それにしても1000光年離れたケプラー214に行くことを考えてるとはいかにも笠原らしい。ケプラー214は現在最も太陽に近いとされる恒星で、その公転惑星には地球環境に94.615パーセント酷似している星が存在するとして、もう10年近く研究が進められている。

「ワープ理論を実証するつもりかよ」僕が言うと笠原はいつも黙って左頬だけで笑う。彼のその表情は本気の印だ。

「まあ、タイムマシーンを造るよりは楽なんじゃないかな」気が向いたときだけ、そんなことも言ってみせる。


僕が寄宿しているのは天文台スタッフの寮で、食堂で毎日の食事を摂ることはできるが、洗濯は自分でやらなければならない。

僕は3日に一度、洗い物をまとめて古びた洗濯機をまわし、芝の貼られた寮の庭で物干し竿にシャツや下着やハンカチを干した。

天文台が休館のある日、洗濯が終わり庭に出ると先客がいた。デニムのミニスカートに白いTシャツを着たショートカットの女の子だ。僕と同じくらいの年頃だろうか。長い手足が浅く陽に焼け、首だけがやけに白くて細い。

僕は重い洗濯かごを両手にぶら下げて立ち、白いワイシャツを干す後ろ姿をぼんやり見つめていると、突然、彼女が振り返った。

「やだ、ずっとそこにいた?」

彼女は少し怒ったように言った。

「いや」僕は(ちがう)と手を振ろうと慌てて洗濯かごを離し、重いかごがサンダル履きの足の甲に落ちて、「わっ」と尻もちをついた。

彼女は「ちょっと大丈夫?」と言いながら近づき、散らばった洗濯物をかごに入れてくれた。

僕は転がったことと彼女が僕のパンツを平然と拾いあげていることに赤面し、顔が火照った。

「きみ、東京から来たアルバイトの子でしょ」

僕の顔をのぞきこむように見て、彼女が言う。

キレイな顔をしていた。少し目が青い。強い日射しなんてまったく気にもしていないように涼しい表情でまっすぐに僕を見る。頬をつたう汗が光っている。僕は視線を外して彼女のTシャツの文字に目がいく。『SMILE AGAIN』とプリントされている文字がわずかに胸の膨らみの上で歪む。

「そうです」僕は緊張気味に答える。

「そうだと思った」笑顔で言うと、彼女は洗濯かごを持ってくるりと向きを変え、歩き出した。

僕はようやく起きあがり、「それ、洗濯物」と彼女の背中に声をかけた。

「一緒に干してあげる。いま、お父さんの干してるから」

言いながら、彼女は僕のトランクスを手に取った。僕は彼女の手からそれを奪うように取り、後ろ手に隠した。

彼女は珍しいモノでも見るように僕の目を窺い、「女の子みたい」と言って父親のワイシャツに手を戻した。

手塚美月との出会いだ。僕はこのときにあっけなく恋に落ちた。まるで足元の地面が急に無くなり、立ち姿のままストンとどこまでも深く地中に落ちてゆくように、あっけなく、そして疑いようもなく恋に落ちた。

僕と美月は並んで洗濯物を干し、そして彼女主導で話をした。

彼女は天文台の手塚部長の娘だった。自宅は横浜にあり、夏休みを利用して単身赴任の父親のもとへ来ていた。生まれ年は一緒だが、学年はひとつ下だ。

「年上かと思った。完全に上からだよね」

「そうかな。では、敬語で話せばよろしいですか?」

「いや、いい。バカにされてる気がする」

彼女は楽しそうに笑う。笑うと年相応の顔になる。

「きみ、月生まれだよね」

「そうだよ」僕は少し構えて答える。この質問に続く言葉はたいていの場合、僕を不機嫌にさせる。

「月からはどの星が一番きれいに見える? 月のハッブル望遠鏡で見たことある?」

予想に反して彼女の問いは僕の琴線に触れた。

「星が好きなの?」質問に質問で返した。

「何言ってるの? わたしは誰の娘なのよ。わざわざこんなところへ来ているのは、父親の下着を洗濯するためじゃないんだよ」

「そうか、そうだよね」言いながら僕はまた赤面した。

「ええと、太陽系ならやっぱり火星かな。木星の衛星や土星の環も魅力的だけど、一番は火星。遠い昔の生命の痕跡があって、不恰好な双子の月、フォボスとダイモスが浮かんでいて、特にダイモスの色と形がなんというか…」

「気持ちいい」彼女がうれしそうに言葉を継ぐ。

「そう、気持ちいいんだ。きっと石灰石みたいなツルンとした肌触りで」

「そう、そう。そのきれいな岩肌にクレーターの影があったりしてね」

このときだ。このとき、足元の地面が突然消え、僕はどこまでも深い穴にストンと落ちた。

人生のなかで、本当に素敵な出逢いなんてめったにあるもんじゃない。実際、美月にあったこのときほどの素敵な出逢いは、僕のこれまでの16年にはなかった。そして、この先にもないかもしれない。

僕は、多少張りきり気味に星の話を続け、彼女も僕に負けないくらい声に熱が帯びていた。

そして、僕らは友達になった。


宇宙の闇は静かだ。レンズを通して見ているので実際に音を聞いているわけではない。そして動くものもない。惑星の自転や衛星の回転は人の知覚速度からするとあまりに遅く見え、広大な闇のなかで静止しているように見える。

時おり、遠くに流星がスゥーと流れる。流れる星は近づくと音を発しているのだろうか。果ての宇宙で起こる超新星には音があるのだろうか。大気がないのだから音が伝わらないことは理屈ではわかる。でも、無音の闇に僕らは求めてしまう。音や生や在ることを。

美月が赤い星を眺めながら言う。

「ねえ、70年前には火星に生命がいたかどうか、判断がつかなかったでしょう。それが例のフォボス片落下事故で生命の痕跡が証明された。原始生物でしかなかったけれど、彼らはそこに確実に存在して、わずかな水を得て、そよぐ風を受け、四季折々の景色を見て、何かを感じていたのよ。わたしたちと同じように」

「うん、それを再現しようというのが火星植民地計画だからね。自転は地球とほぼ同じで、太陽に対する地軸の角度も近い」

美月と僕は薄暗い展望室にふたりでいた。彼女が来て以来、夕食後の天体観測はふたりの日課となった。技師の山中さんはサブルームで巨大望遠鏡を操っている。

彼女が僕を見て静かに言う。

「藤沢くんは高校から地球でしょ。初めて来たとき、どんな気持ちだった?」

"ここ"へ来てから何度も聞かれた質問だ。まだまだ月生まれはマイノリティで、珍しいモノを見るような目で見られることが多い。でも、彼女の興味は異端を見るそれとは明らかに違うことが、僕にはわかった。

「港に降りて、まず展望デッキに出たんだ。風を感じるためにね。月のドームには風が吹かないから、月から来た人はみんなそうする」

彼女は黙ってコクリと頷く。

「一緒に来た友達と風を感じながら、『なんだか変な匂いだね』と言いあったんだ。いま思えば潮の香りなんだよ。でも僕らはそんなこと知らないから『なんだか気持ち悪いな』って。そのあともいろんな匂いを嗅いで、しばらくは匂いに敏感になったかな。なれるまでは大変だったよ」

「月のドームは完全に空気がコントロールされているものね」

「だけど、このいろんな匂いが、地球が、人が生きている証拠なんだって、あるときに気づいた。そして僕らが生まれ育ったムーンベースがいかに人工的な環境かということを思い知らされた。それからは積極的に匂いを嗅いで、目で見て手で触れて確かめるようになったかな」

「匂いのほかには何かある?」

「日差しかな。太陽光が大気のなかでさまざまな表情を見せる。月のドームでもね、昼間は東京の空と同じ映像が映るんだ。ドームの内壁にね。でもそれとはまったく違う。大気のなかの光には強弱があって、物理的にはないんだけど、雲や風や木々や水によってやわらかくなったり、揺らいだり、跳ねたり、色に染まったりする。なんというか立体的なんだ」

「うん、わかる」

「風もなく熱量も一定のムーンベースは、僕らのすべてだったけど、あれは箱庭だった。望遠鏡で覗いてショックだったよ」

「うん、物理的には箱庭かもしれないね。でもきみと話していて、なんていうか、こう、箱庭で育ったゆえの変な歪みみたいなものは感じないな。だって、住んでいたときには、そんなこといつも感じていたわけじゃなかったよね」

「うん、そうだね。何も意識してなかったわけじゃないけど、まあ、地球でもこんな感じだろう、とは思っていたよ」

「たぶん、人って物理的な環境よりも精神的な環境のほうが影響が大きいんじゃないかな。地球で生まれ育っても、箱庭的な狭さを心に感じて毎日を過ごしているひとはいっぱいいると思う」

ほのかな明りに浮かびあがる彼女の横顔を見る。彼女は赤い星を見続けている。

「いま、あの星で生活している人がいるじゃない。まだ、民間には開放されてないけど。いつか、あの星で普通に生活するようになって、きみが月でそうしていたようにね。そうしたら次の星へ、次の星へと向かっていくのかな」

「うん、僕の友達は1000光年離れたケプラー214へ行くことを本気で考えてる」

「ケプラー214!」彼女は楽しそうに笑う。

「そんな時代が来るのかなぁ」

「あまりにも現実感がないけどね。そのときに僕らは主役じゃない」

「そのときに物語の主人公は誰なんだろう」遠い目をして彼女は言う。

「この一歩は小さな一歩だけれど」

彼女の言葉に僕が続ける。

「人類にとっては偉大な一歩である」

僕は彼女の青い瞳を見る。

アームストロング船長の呼吸する音が聞こえてくる。

見つめあう僕らに「今日はもう終わりにするよ」と山中さんから声がかかる。

(続く)

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※この作品は、月にまつわる物語の連なりの一篇で、時間軸としては『船を見に行く』の後となります。


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