夏休みと赤い星②

【小説】

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美月が来て4日が過ぎた。彼女がここにいるのは次の休館日までで、残りあと4日だ。僕は時間の流れの不思議を思う。美月と星を眺めながら語り合うとき、時間はどこまでも引き伸ばされて意識は永遠の宇宙をさ迷う。しかし、いまこうしてアルバイトの作業をこなしていると、無情にも彼女と別れる日に向け時間が確実に進むことを自覚する。

彼女に惹かれる僕は月だ。地球の重力に引かれて近づくが、一定の距離以上には近づけない。わずかな僕の引力が反発するからだ。だから僕は美月に惹かれながらも、彼女のまわりをグルグルとまわり続けるしかない。

笠原ならきっと科学的にアプローチし、現実的な判断を下すだろう。

「ぼくときみの間の現在の距離を測定し、今後、さらに近づく要素と離れていく要素を数値化して、判断したい。ぼくときみのこれからを」

「ふ~ん。よくわからないけど、未来のわたしの感情は予測できないから」

「うん、わかってる。だから、今現在、可視化できる要素だけでいいんだ。それを提示しあって検討しよう。暫定的な結論を」

「言っていることはわかるんだけど、そこに意思の強弱は反映できるの?」

「不確かな要素は極力排したいんだよ」

「わかった。では、二つの線は交わらないという結論にしましょう。暫定的に」

これじゃ、ダメだ。僕は僕の方法でアプローチするしかない。


その日の夜、僕たちは木星を観測していた。

「エウロパは裏側に回ってるから見えないってさ」

「そう。残念」美月の興味はかなり失われたようだ。

僕だって同じだ。ガス惑星の木星で唯一興味をもてるのが、氷の海に地表を覆われた衛星エウロパだ。深海に生物がいる確率は理論上99パーセントを超えている。

「ねえ、エウロパの海洋生物ってどんな形状だと思う?」

「プランクトン型の単細胞以外で存在するなら、わずかな光を吸収するためにエイのような大きな翼を持つタイプじゃないかな。ただ細胞数はそんなに多くないはずだけど」

「細胞数が少なくて表面積が大きいなら、クラゲみたいなのもあるよね」

僕らは地球から6億キロ離れたエウロパの凍った海のなかを探索する。巨大なクラゲの群れが漂い、エイが音もなく舞う。

こんなとき僕の頭のなかには何か特別な物質が生成され、思考と神経が鈍くなっていく。鈍りきった思考のなかで、わずかに現実と接点を持つ脳細胞の一部がしきりと問う。

『彼女にアプローチするはずじゃなかったのか?』

そうなんだ。今日は美月の気持ちを確認したかったんだ。でも、この痺れるような気持ちの良さを終わらせたくはないんだ。それに。

それに、彼女もこうして僕の隣でエウロパの海を泳いでいるし。

僕は彼女と手をつないで泳いでいた。そうだ、いま聞いてみようか。まずはこの世界のなかでシミュレーションだ。

僕は彼女に語りかける。

「ねえ、僕はきみに出逢えてとても幸せなんだ。でも、きみが同じように感じているのか、それが知りたい」

彼女は僕を見て、楽しそうな笑顔をつくる。

「きみはそんなことも言葉にしなきゃわからないんだ。ねえ、言葉にどれだけの意味があるのかな」

「言葉にしなければ伝わらないことだってあるよ。ああ、でも、いまはきみと議論をしたいわけじゃないんだ」

目の前をエイが優雅に通りすぎる。

「わたしは言葉にしなくてもわかるよ。目を見ればわかるし、それにこうしてつないだ手からも伝わってくる」

僕は彼女の目を見て、そしてつないだ手を見た。

彼女の手はひんやりとしているが、握られた指からは確かな意思がつたわる。

「そうか。そうだね。言葉にする必要はないのかもしれない。でも敢えて言うよ。僕はきみが好きだ」

「わたしだって好きに決まってるじゃない」

さも当たり前なことのように言う彼女の顔が大人びて見えた。僕の顔は幼いままなのだろうか。僕はそんなつまらないことを考えた。エウロパの海は氷の下とは思えないほどに暖かく、わずかな太陽の光が海面の氷に乱反射してキラキラと輝く。頭の芯が痺れるような心地よさのなか、僕らはエイを追いクラゲの群れをくぐり抜けて、いつまでも泳ぎ続けた。

ふいに辺りが暗くなり我に帰った。サブルームの照明が消え、展望室の非常灯に小さな明りがともった。

「どうしたんだろう?」暗闇のなか美月を見ると、彼女もたったいま夢から覚めたような顔をしている。

「うん、停電かな?」彼女がうつろに僕を見たそのとき、ふたりが手をつないでいることに初めて気づいた。

サブルームの扉が開き、山中さんが小型のサーチライトを手に展望室に入ってきた。僕らにライトを向けて言う。

「停電のようだ。発電機でシステムは動くけど、オフィス回線には電力をまわさないから、もうここは閉めるよ」

山中さんに気づかれないよう、つないだ手をふたり同時に体の後ろにまわした。それでもしっかりと手と手は握られたままだ。まるで、それが自然なことであるように。


その日の深夜、僕は深い眠りのなかから突然目覚めた。部屋の外が騒がしい。眠い目をこすりながらドアを開けると、観測技師のスタッフが慌てて階下へと降りていく。その中に山中さんを見かけ、僕は「何があったのですか」と尋ねた。

「太陽風の影響が予測よりも早く現れた。 いま、月で電力が止まっている。火星も危ないかもしれない」

山中さんは走りながら説明し、「藤沢くんもおいで」と言い階下へ降りた。僕はすぐに着替えを済ませ、皆が集まっている食堂へ行くと、そこには美月もいた。僕は美月の隣にならび、所長の話を聞いた。

計算上では二週間後に到達するはずの太陽風がすでに地球圏に届き始め、大気圏上空で活発な放電活動が起こっている。これにより地上の各地で電気が止まり、通信が不安定になっているという。大型の発電所はほとんどが静止しており、小型の自家発電装置がかろうじて稼動しているという状況だ。

僕はムーンベースのことを考えた。ドーム内では、有事に備えて一人当たり72時間分の酸素を確保している。また、電力もメインの太陽光蓄電所のほか、サブが3箇所に用意されており、電力確保では余程のことがない限り、人命に影響するような状況は起きないはずだ。

僕は所長に質問した。「ムーンベースの蓄電所はどうなってますか?」

所長は難しい顔で答えた。

「40分前の連絡では、メインが不可、サブは一つだけ稼動ということだったが、その後、連絡が途絶えてわからない」

所長はスタッフ全員の顔を見渡し、「いまから主だった観測所が分担して月、火星、有人衛星、航行中の船の観測を行う。我々の役割は火星基地だ。外側から得られる情報をすべて拾い上げ分析をかける。そして観測結果はすぐにJAXAの対策本部へ送り、現地との通信が回復した際の有事対策情報となる。では、すぐに観測を始めてくれ」

展望台の大小2基の望遠鏡が火星に向けられ、観測が開始された。こういう状況では残念ながら僕の出番はない。僕は美月とともに第一展望台のサブルームと隣接する控え室に入り、微弱な電波を頼りに情報を集める役割を担った。

テレビモニターをマルチスクリーンにして、ニュースが流れる可能性のある21チャンネルすべてを映し出した。またIP音声放送を3局、端末上に立ち上げた。しかし、いまのところ放送、通信はすべて途絶えている。

僕と美月は、望遠鏡の捉えた映像をモニター画面で眺める。建設途中の火星基地が黒い影となって見える。月も火星も電力が止まれば、たちまち人間を排除しようとする。僕は子どものころの事件を思い出していた。


7歳の頃だ。夜中に父に起こされて暗い家のなかをリビングに向かった。母は昨夜の夕食の残りを真空パックし、保存食とともにバッグに詰めていた。6時間以内に電力が回復しない場合は、発電装置のある港に向かうという。港は危機管理上でも重要な施設だ。すべての策が尽き、最悪の場合でも3日間は生命を維持でき、その間に地球からの船を待つことができる。

僕が覚えているのは、母に手を引かれ、港へと向かう道すがら、明かりがすべて消えた街から見上げた宇宙の暗がりだ。まるで何も拠り所のない不安定な空間に浮かんでいるようで、闇に吸い込まれてしまいそうで、僕は恐怖を覚えた。

それはムーンベースで起こった30年ぶりの、そして現時点で最後のテロ事件だった。

ムーンベースは計画当初から過激な自然派団体の標的になった。地球環境を破壊しつくした上に月の環境まで壊すのか、というのが彼らの主張だ。ムーンベースは火星植民地計画の前段でもあるから、当然、火星の開拓にも彼らは反対している。

月の開拓当初はひどかったらしい。爆破予告による工事中断は数知れず、実際に爆薬を使用することはなかったものの、爆破装置が予告された場所から見つかったこともあったそうだ。

僕が経験した事件は結局、ドーム環境を最低限維持できる程度にインフラを切断するという破壊工作だった。とはいえ、逃げ場のないドームに住むものにとっては十分に脅しの効果は高く、政府はそれを機に水際のチェックを厳重にし、プライベートにまで踏み込んだ住民への徹底的な管理体制が敷かれた。それにより、僕たち子どもは街を走ることさえ禁じられるようになってしまった。


モニターに途切れ途切れの映像と音声が現れた。断続的な映像の切れ端だが、放送局はすべてが太陽風の影響について緊急番組を組んでいるようだ。

〈月の……ベースで……………いせんがふっか……………火星ではいぜ………れず……………りかえし…………〉

もっとも電波が安定していそうな局の音声を流し、僕と美月はモニター画面に集中した。電波は時間が経つにつれて回復していく。アナウンサーが月の電力が回復したことを告げる。映像にはどこかの望遠鏡が捉えたムーンベースの映像が映る。

「明かりがついてる」僕はほっとして肩の力が抜けた。

「良かったね。もうすぐご両親とも連絡がつくんじゃない?」美月が言うと、モニターの映像が火星に切り替わった。

〈いまだ火星基地とは連絡がとれず〉とテロップがインサートされる。

「火星はまだ連絡がとれないんだ」美月が心配そうに言う。

僕はある人のことを思い浮かべた。たった一度見かけただけなのに、僕はその人のことをずっと覚えている。

その人は月の港で年老いた父親と船の入港を見ていた。

〈あの船はね、火星まで行くの〉

火星でBarを開くという父親の叶わぬ夢の代わりに、自分が火星でお酒を飲むと言っていた。遙か遠くに地球や月を眺めながら。

あの人はいま、電力が切れて凍りつくような寒さのなか、あの赤い星にいるのだろうか。

(続く)

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※この作品は、月にまつわる物語の連なりの一篇で、時間軸としては『船を見に行く』の後となります


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