夏休みと赤い星③

【小説】

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「どうしたの? ぼーっとしちゃって」美月に声をかけられ、僕は彼女を見る。 美月の青い瞳があの人のそれと重なる。 

「きみはどうして青い目をしているの」 

深く考えずに思ったことが口をつき、言葉が宙に浮いて初めて僕はその意味に気づいた。 

「あっ、ごめん、いまのなし」 

美月は何か面白いものでも発見したような、好奇心に満ちた表情を見せた。 

「え、どうして〈なし〉なの?」 

「え、なんとなく。えーと、そういう見た目のことを言うべきじゃないと思って」 

「うん、興味本位で聞かれるのは確かに嫌かな。でも、きみに聞かれるのは嫌じゃないよ」 

美月は青い瞳のわけを話してくれた。それはとても単純な理由で、彼女の祖母がフランス人だからだった。 

「でもね、おじいさんとおばあさんの出逢いが素敵で、結婚するまでがかなりドラマチックなんだ」

うれしそうに話す彼女の声に重なり、モニターから深刻な声色のアナウンスが流れる。 僕と美月はモニターを振り返る。 

「JAXAは火星基地と断続的な連絡がついたと発表しました。これによると建設中の基地では太陽風の影響を受け主だった発電機が停止、これにより酸素循環装置が作動せず、2時間前から携帯用ボンベの使用に踏みきりました。今後3時間以内に電力が回復しない際には、約千人の全作業員を船に乗せ、地球または月を目指すことになります。繰り返します……」 

「無理だ」 

「えっ」 

「たぶん、船には2~300人しか乗れないと思う」 

美月が不安そうに僕を見る。でも僕にできることは何もない。無力な高校生の僕はただ祈ることしかできない。 

「でも太陽風の影響が去って電力が回復するのが早いかもしれない。そうしたら船に乗り込む必要もないし、全員助かるよね?」 

「地球での影響時間が、最初の停電からさっき通信が回復したまでだとすると、ざっと6時間だから、ギリギリ間に合うかどうか」 

「間に合うよ。絶対に!」美月が力強く言う。

彼女が言うと、それは100パーセントの確率で実現することのように思え、僕は不安な気持ちが徐々に薄らいでいった。それに。 

それに、あの人はきっとあそこにいる。そして、あの人が死ぬはずがない。あの人も美月と同じ青い瞳で「絶対に間に合う!」とまわりに語り、励ましているはずだ。僕は何の根拠もなくあの人を信じていた。 

控え室のドアが開き、手塚部長が入ってきた。 

「ニュースを見たかい」 

僕と美月が頷く。 

「JAXAからも連絡が入って、予定時間より早めに船に乗るよう指示を出したそうだ」 

「でも、船には全員は乗れないんでしょ」美月が不安な目で父親を見る。 

手塚部長は僕を一瞥して美月に言う。 

「いいかい、美月。船の定員は275名だ。でもさらに100名ほど多く乗船しても航行にはまったく問題はない。そして飛ばずに避難所として活用するだけなら千人だって収容することはできる。後は千人を収容した時の酸素の問題だ。でも私たちは地球での影響時間を鑑みて、発電機の回復が早いと計算している。それに次の船があと一週間で火星に着くから何も心配する必要はないんだよ」 

手塚部長は僕を見て「さあ、もうきみたちは休みなさい」とふたりに言って、部屋を出た。 

僕らはその後もしばらくの間、モニター画面を黙って眺めた。新しい情報は入ってこない。 

僕は美月にあの人のことを話した。 

月の港でたまたま見かけたこと、父親の夢を果たしに火星に行くと言っていたこと、美月と同じ青い瞳を持つこと、その目が一瞬僕の視線と合ったこと、何か特別な思いのようなものを僕が感じたこと、それから3年、あの人と会った場面を繰り返し思い返していること。 

「ふーん、まるで恋だね。きみはその人に恋してるよ」 

「いや、恋なんかじゃないよ。だいたい僕の両親よりも年が上だし、本当にわずかな時間見かけただけなんだよ」 

「恋に年齢や時間なんて関係ないよ」 

僕は美月の頑なな態度のわけがわからなかった。 

美月は「あ~あ」と背伸びをして肩を落とした。 

「なんか、うーん、正直ショックな気持ち。100年の恋が覚めた気分」 

美月は口ごもるようにためらい、そして言葉を続けた。 

「きみはわたしの青い瞳にその人を重ねただけなんだよ」 

僕は一瞬言葉を失い。そして反論することができなかった。 

その会話を最後に僕らは寮に戻り、僕と美月はそれぞれの部屋に入った。 

僕は眠れなかった。火星基地のことと美月のことを交互に考えた。あの人が危機的状況のなかでいかに冷静に行動しているか。美月が「100年の恋が覚めた」と言った心のうち。

そして、考え続ける先のまどろみのなか、夢を見た。


僕は火星の大地に立ち、赤い空を見あげている。すべての明かりが消えた火星基地からは、仮説ドームを透かして赤い空が広がり、不恰好な衛星ダイモスがわずかな大気の外側に、ぽっかりと浮かんで見える。

酸素が徐々に減少していくのが、肺の痛みとなって現れる。作業スタッフが次々と船に乗り込んでいく様子が遠くに見える。僕は船には乗らない。発電機の再稼動が間に合うと信じているからだ。美月は言った。

「間に合う。絶対に!」

僕は太陽風の影響下から抜けるのをじっと待っている。空を見あげながら。

「100年の恋も覚めたよ」どこかから美月の声が聞こえる。僕は首をまわして辺りを見るが、彼女の姿は見えない。

「アハハ、何やってるの? ここだよ、ここ」声は頭の上のほうから聞こえ、僕は空を見あげる。見あげた先に美月がいた。赤い空に浮かんでいる。ダイモスの隣に。

「きみもおいでよ。ここからの方がよく見えるよ。地球も月も」

僕は「飛べないよ」と答える。 

「飛べるよ。目を閉じて、飛べると念じてみて」 

見あげる美月は愉快そうに笑っている。 

僕は目を閉じて念じてみる。「飛べ」と。 

いくら経っても飛ぶ気配がない。僕は目を開けて美月を見あげる。 

いない。と思った瞬間に右手を握られ、美月が隣で言う。 

「飛ぶよ」 

僕は美月に導かれるように地上からふわりと浮きあがり、少しずつ空へとのぼってゆく。 ドームをすり抜け、火星の地平線がぐるり見渡せるほど高くのぼる。

「離すよ」言うと美月はつないだ手を離した。僕は慌てて手足をバタつかせるがすぐに落ちるようすはない。 

「空をかくの。手足を使って」 

平泳ぎの要領で空をかく。すると体制が安定して僕は落ち着きを取り戻した。なるほど。空を飛ぶのも海を泳ぐのも同じなんだと気づく。 

「あれ」と美月が指さす。 

僕らは赤い空を泳いでダイモスに向かう。美月がキレイなフォームのクロールで先をゆく。僕も負けじと平泳ぎからクロールに変えるが、うまく泳げない。もともと僕はクロールは得意じゃないんだ。 

美月が先にダイモスの岩肌にタッチして僕を振り返り、「わたしの勝ち」と笑う。とびきり眩しい笑顔に僕は「負けてよかった」と幸せを感じる。 

ふたりしてダイモスの上に座り、「ツルリとしてないね」「ザラザラだね」と岩肌をさわる。 

ふいに美月が僕の手をとり「行くよ」と言って飛び降りる。慌てて飛び込んだ先に海があった。 

大きなクラゲの群れがゆらゆらと漂い、エイが優雅に羽根を広げる。見あげる海面は氷に覆われている。 

「ここは、エウロパの海だ」 

「そうだよ。きみがわたしに告白してくれたところ」美月の瞳の青色が濃い。 

「そして、わたしが生まれたところ」 

「?」 

驚く僕の表情を見て、美月が楽しそうに笑う。

「きみって本当におもしろいね」美月は手を離してひとりで先を泳ぐ。僕は懸命に後を追うがふたりの差はどんどん離れてゆく。 

「待って」声を出そうとして海水を飲んだ。息ができない。さっきまで普通に呼吸をして喋っていたのに。 

息が苦しい。このままでは死んでしまう。僕の体は海の底に向かい沈んでゆく。薄れゆく意識のなかで遠くに泳ぐ美月を見た。 


気づくと僕は道に横たわっていた。 

「きみ、大丈夫?」声をかけられ、僕は酸素マスクをつけられた。 

しばらく深呼吸を続けると呼吸が楽になった。 

「立てる?急がなければいけないの。もう時間がないから」 

「はい、立てます。ありがとうございます」 

僕は立ちあがり、助けてくれた人を見た。 

「あっ」思わず声が漏れた。あの人だ。 

「いまから発電機の再起動に向かうから。酸素ボンベがひとつしかないから一緒に来て」 

ボンベとつながる二股のマスクが届くように、僕を抱きかかえるようにその人は歩き出した。 

「なぜ、この時間まで船に乗らなかった?」 

「間に合うと思ったからです」 

その人は青い瞳を僕に向けた。 

「あなたがいるから大丈夫だと思いました」 

「きみはわたしを知っているの?」 

「はい、前にムーンベースで見かけたことがあります」 

「きみは月生まれ?」 

「はい」 

「そう。わたしも月で生まれた」 

その人は、穏やかな笑顔を見せた。 

「ところで、ひとつ話をしておくね。この酸素ボンベ、船と発電所をひとりで往復する分しか酸素がないから」 

僕の顔色を窺いながらその人は言う。 

「だから、もし再起動に失敗すれば、ふたりとも船にはたどり着けない」 

僕は黙って自分のマスクを外す。 

その人は僕にマスクをつけなおして言う。 

「大丈夫。失敗はしない。それに。それに、もう誰も死なすわけにはいかないんだ」 

僕はその人の顔を見ながら、美月の言葉を思い出した。 

「まるで恋だね。きみはその人に恋してるよ」 

美月、恋ではない。恋ではないんだ。でも、この気持ちを表す言葉を探すことができない。僕はこの人に、この人の瞳に何を見ているのか。空が赤い。赤い空。僕が目指していたのはこの空だったのか。この空を青く染めるのは罪なのだろうか。美月、きみに会いたい。 

「ダメだ。何度試しても再起動しない」その人が僕を見て、右の眉をひそめる。 

僕はなんとかしてあげたいけど、何もできない。僕は役立たずな自分の幼さを呪った。 

「きみ、名前は?」 

僕は自分の名前を告げた。 

「わたしは月子。水原月子。きみがわたしの最後なんだね」 

「えっ」首を傾けると、その人は僕の手をとり「さあ、行こう」と言った。

 

何か頭に響く音がして、僕は無意識に目覚まし時計を探した。手にした目覚ましは鳴ってない。何の音なんだろう。ああ、これはノックの音なんだ。重いまぶたをむりやり開けると窓の外はまだ暗い。僕は鉛のような体をひきずるようにして入口まで行き、ドアを開けるとそこに美月が立っていた。 

「やだ、もう寝ちゃってた?」 

「もう、って」ぼんやりした頭で現状を認識するように努めるが、どうにも重い。体も頭も絶望的に重い。 

「火星基地、助かったよ。電力回復した。全員無事だって」 

「そう、よかった」 

「あっ、でも一人だけ、発電機の再起動に立ち会った人が怪我をして重体なんだって。いまニュースでやってる」 

「えっ」僕は頭のなかで何かが疼くのを感じた。 

発電機の再起動……あの人だ。僕は部屋のモニター端末をつけ、ニュースを確認した。

「バイオサイエンスチームのチームリーダー、水原月子さんが、発電機再起動時の圧縮空気漏れに対処した際、首と顔の右側面に怪我を負い重体のもよう」

画面にはあの人の顔写真が映された。それは何かの証明写真で、スーツを来て毅然とした表情でまっすぐにこちらを見ている。

「この人だよね」隣で美月が言う。

僕は「うん」と頷き、美月を見た。

僕はさっきまで見ていた夢の話を美月にした。

ふたりで火星の赤い空を飛んでダイモスに降り立ったこと。あの人に助けられ、一緒に発電機の再起動に向かったこと。あの人が水原月子と名乗ったこと。ただ、エウロパの海を泳いだことは伏せた。あれは僕の想像の世界のことだから。

美月は「不思議な話だね」とひとこと言い、しばらく黙りこみ、ふと僕の手をとって、窓辺に立った。

「なんだろう。よくわからないんだけど、どうしようもないんだ」

星空を見ながら美月が言う。

「恐いようでいて温かくもあって、不安で胸がすくように苦しいのに、とてもうれしいんだ」

美月の青い瞳から涙が流れる。

僕は美月を引き寄せて背中に手をまわした。

「僕も同じだよ。僕もどうしようもないんだ」

美月が僕を見つめる。僕も美月を見つめる。


美月が横浜の実家に帰る日、僕は彼女の荷物を持って駅まで見送りに行った。

あの日以降も、僕と彼女はそれまでと同じように過ごし、さまざまな星を見ながら夢や現実を語り合った。ふたりの距離は互いがそう求めているかのようにそれ以上縮まらず、僕は相変わらず美月のまわりを月のようにぐるぐると回っていた。

「月子さん、早く良くなるといいよね」

「うん、そうだね」

ニュースが伝えるあの人の状態は決して良くない。でも僕は信じている。いつか元気なあの人に再会できると。

なんだかふたりとも会話が少なく、ぎこちない。僕らはこれからのことをまだ何も話していない。

美月は黙って手を差し出し、僕は手をとった。

「言葉なんて意味ないから。目を見ればわかるし、こうしてつないだ手からも伝わってくる」

「うん、そうだね」と言って僕は首をひねる。それは僕の妄想のなかの、エウロパの海での会話だ。

発車のベルがなり、美月は電車に乗り込む。僕は何も言えない。言いたいことはたくさんあるのに。

列車のドアが閉まり。美月がドア越しに笑顔でバイバイと手を振る。僕も手を振り、動き出した列車に合わせて2歩3歩と歩く。

美月が口を動かして何かを言ったが、それは僕の耳には届かなかった。

(完)


※この作品は、月にまつわる物語の連なりの一篇で、時間軸としては『船を見に行く』の後となります


tamito

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