贖罪 幻

【小説】

 

 遅い昼食を摂ろうとオフィスを出て、青山通りを赤坂見附方面へと下る。この頃は昼しか食欲がないので、できるだけガッツリしたものを食べるようにしている。体重は二年で五キロ落ちて、それ以降は量っていないのでわからない。たまに見る鏡のなかには僕によく似たやつれた男がいる。
 雨は止むことなく降り続いているのに、道ゆく人たちは傘をささない。僕もまた傘をささない。雨に濡れるのにはもう慣れてしまったんだ。
 通りをさまざまな人たちが行き交う。ふたり連れは穏やかなオレンジ色。三人以上の集団は誰かが話すたびににぎやかに色が変わる。ひとりで足早に過ぎる人は薄いグレーが多い。ゆっくりと歩を進めるひとりは寒色系が多く、ひとによって濃淡の差が大きい。
 そんな色彩が水晶体を通して僕の心を染める。僕は心が染められるたびに後でたっぷりと目を瞑り、きれいな水で洗い流す。無色になるまで。
 視点を定めずぼんやりと色の洪水のなかを歩いていると、藍色よりも少しだけマゼンタの比率の多い「青」が視界の端に現れた。とっさにCMYKを推量することができない。きれいだけどとても悲し気な藍。どこか懐かしい感情の欠片が現れ胸を締めつける。僕は視点を「青」に置いて坂を下る。「青」はゆっくりと坂を上ってくる。互いに近づく距離に徐々に鼓動が高まってゆく。これはクスリで治まるやつじゃない。
 すれ違いざまに「青」の顔を盗み見る。鼓動が心臓に大きな負荷をかける。もうひとりの僕が様子を察してすかさず僕に言う。

「似ているけど違うよ」
「そうかな、彼女じゃないかな」
「マゼンタがわずかに少ない」
「時間が経っているんだ、少しは配合も変わるよ」
「とにかく違うよ、他人のそら似さ」
「でももし彼女だとしたら……」
「彼女だとしたら……どうするの?」

 僕はすれ違ったばかりの「青」の後ろ姿を目で追う。確かにマゼンタが少しだけ足りない気がする。仮に「青」が彼女だったとして、僕は何がしたいのだろう。「こんにちは」「ひさしぶり」なんて話せるわけない。だって、僕は彼女を殺したのだから。

「殺したわけじゃないさ」
「殺したも同じだよ、そして僕も一度死んだ」

 

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tamito

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