贖罪 雨

【小説】

 

 毎朝家を出るたびに何か忘れ物をしたような気がして、バッグのなかに顔をつっこんでは再び玄関を開け、リビングのテーブルを眺めて途方にくれる。これは決してよい兆候ではない。場合によってはあのいい加減な院長にもっと強いクスリを処方してもらわなければいけない。
 僕の頭のなかにはもうひとりの僕がいて、いつだって僕の正の行動に対して負や邪の意見を言う。いや逆かもしれない。僕の負や邪の行動に対して正を意見してくれているのだろう。きっと。いずれにせよ僕は毎朝忘れ物に悩まされるのだが、それは実際にこの半生で忘れてきたものたちのことを、もうひとりの僕が忘れないようにと戒めているようにも思える。
 今朝も4回半玄関の扉を開け閉めして、ようやく駅へと向かう途中で雨に降られた。傘を忘れた。天気予報はいまにも降りだしそうだと言っていたのに。
 この夏の降水量は異常だ。音もなく静かな雨が街を濡らし続ける。きっと世界のどこかで誰かが、しくしくと枯れることなく涙をこぼし続けているに違いない。でも僕にはそんな誰かの悲しみを癒して笑顔を取り戻すことなんてできやしないから、こうして黙って雨に濡れ続けるしかない。

「そんなことないさ。きみだって誰かの涙をとめることはできる」
「何を根拠にそんなことを言うんだ。じゃあなぜ僕は雨に濡れ続けている」
「雨なんか降っちゃいないさ。空を見あげてみなよ」
「でもこうして僕の帽子もポロシャツもデニムも靴も濡れているじゃないか」
「わかったよ、きみは雨に降られて濡れている。だけど濡れない方法もあるんだ」
「雨に濡れない人なんていないよ」
「さあ、それはきみしだいだよ」

 もうひとりの僕が僕を混乱させる。いったいどうしたら雨に濡れないことができるって言うんだ。僕はずぶ濡れのまま駅の改札を抜け、満員の通勤快速に乗る。まわりの乗客たちが怪訝な顔で濡れた僕を見る。できれば誰かに迷惑なんてかけたくない。でも雨が降り続いているんだ。しかたないじゃないか。

 

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tamito

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