深海より愛をこめて ⑨

【小説】

 

 ほんとうに一瞬の出来事だったんだ。

 間近に迫った地下鉄の運転士と目が合い、落ちる!と思ったときに男が胸ぐらを掴んだ手を放した。フワッと身体が後ろ向きに宙に浮く感覚と、〈終わりだ〉と脳が最後を告げる信号が同時にやってきて、僕は死を覚悟した。
 死の間際の脳が放つ信号は、危険を報せる種類のものではなかった。それは未来へと流れ続ける時を止めようとするが如く、例えば強風が壁に当たれば空気は上下左右に逃げるが、筒状のなかでは逃げ場がなく次々と後ろから流れ込む風に押されて空気が圧縮する――それに似ている。〈死〉という壁に向けて時が次々と圧縮していき高濃度の一瞬を生み出す。それが最後の最後に脳が送る信号なんだ。

 

「ふーん、よくわからないけど、そうなんだ。それで? あなたは死んでここへ戻ったの? 生きて戻ったの? そこ、重要なところだから」

え、そこ重要なところだったの?

「そう、リテイクするときの一番重要なところ。だって死んじゃったら終わりなのよ。ジ・エンド。そんなの世の中の常識でしょ」

ええ、聞いてないよ! リテイク中に死んでもまたやり直せるのかと思ってた。

「だって死は厳粛なものなのよ! 一度死んだ者が生き返ったら世の中わけわかんなくなるよ。ゾンビと共存して共栄しなきゃならないんだから」

ゾンビと共存……。まあ、現実の世界はすでにそんな感じだけどね。

「で、死んだの? 死んでないの?」

ああ、死んでない。片岡が助けてくれたんだ……。

 

 ホームから身体が浮いた刹那、身体が引き戻される強い力が働いたんだ。死の間際の圧縮された時のなかだったから、スロー再生で逆回転したのかと思った。だけど、そんな非論理的なことじゃなくて誰かが僕の腕を掴んで引き寄せたんだ。それは片岡だった。でもその反動で片岡が落ちそうになって、今度は僕が彼を支えて抱き合うようにくるっと回転した。まるでサム・ペキンパーかジョン・ウーの映画のようにね、スローモーションで舞うようにくるっと。
 そして、ふたりしてホームの端に倒れこんだところへ地下鉄の車両が急制動に悲鳴をあげながら通りすぎた。僕は片岡がそんなところにいるなんて知らなかったし、そのうえ、彼女まで駆け寄ってくるし、あっという間の死線からの帰還に安堵しながら、何がなんだかわからないまま、ふたりを抱きしめたんだ。

 

「じゃあ、ふたりとも助けられたんだね。めでたしめでたし」

でもさ。

「なあに」

さっきの話。一度死んだら生き返らないって。じゃあ、片岡は死んだままなの?

「そうね、テイク1では死んだままよね。でも、テイク…えと…6?では生きてるわよ。だってあなたが助けたんだもの」

次元が違うってこと?

「うーん、そういう解釈もあるわね」

じゃあ、基点となる僕の現実のテイク1では、西尾香菜子の抱える傷を僕は受け止めていないし、猿渡先生はエロ猿のままなのかな?

「そうね、西尾香菜子さんは、そうね。でも、あなた以外の誰かがいつかそれを引き取るわけでしょ。エロ猿は、まあ、本人次第でしょ」

だったら何のために僕はリテイクをしているの?

「前にも言ったでしょ。世界をより良くするためでしょ。そのためのプラクティスよ!」

 がっくりと疲れはてた。そうか、いくらリテイクして修正しても、結局は違う次元をつくるだけで、僕の現実は変わらないんだ。僕は何のためにこの暗い海の底に来たんだろう。〈構造〉に支配された現実を変えることなんかできやしないのに。

ねぇ、人魚の君、だったらリテイクはもういいよ。僕は僕なりに僕のやり方で世界に立ち向かうよ。あと残りひゃくきゅうじゅう何回あるか知らないけれど。

「194回よ。でも、だったらそれでもいいわ。ただ、まだ、一番大切なリテイクが残ってるみたいよ」

 人魚はタブレット端末みたいな画面を操りながら言う。そこに僕のどんなデータが入っていると言うんだ。だいたい僕はデータというものをまったく信用していない。過去に未来は変えられない。未来を変えられるのは、一瞬一瞬の〈いま〉だけだ。データなんかクソ喰らえだ。でも……、一番大切なリテイク。……あのことか。思い出したくもないけど。でも、あれを修正できて、ヤツを倒せるのか。

「どうする? まだやる? それとも降りる?」

うーん、これってさ、難易度高いよね?

「えーと、難易度はー、あ、200! マックス値」

マックス? さっきの地下鉄は?

「あれはねー、うん、73」

え、そんなに差があるの?

「あなた史上、最悪な出来事だからね」

うーん、リテイクに制限はないんだよね?

「ないよ。あと、テイク先の滞在時間にも制限ないから、思う存分できるわ」

あー、これ、絶対に苦しい闘いになる。だけど……勝って戻れるなら……。

「やっぱり、やるのね」

わ、わかった。やる。何か、何かアドバイスをくれないか?

「何度も言ったわ。考えないで。感じるの」

 

 

 目を開けると、僕は会社の会議室のなかで、経営会議に参加していた――。

 

 

(ゆっくりと時を引き伸ばしてつづく)

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