深海より愛をこめて ⑧

【小説】

 

《テイク5》

 痛っ! わざと肩をぶつけてきた。
 舌打ちまでして、この男、何をそんなにイラついているんだろう……。
 男を目で追うと、後ろ姿の輪郭に沿ってぼんやりと黒い影が浮かんでいるように見える。おかしいな、錯覚か? 目を擦ってもう一度よく見ても同じだ。まるでオーラが出ているみたいだ。すべてを飲み込むブラックホールのような真っ暗な負のオーラ…。
 なんでそんなものが見えるのだろう。僕は男を追って人波をかき分ける。
 男は、乗車のための列が雑然としているところへ、まわりにわざとぶつかりながら割り込んでゆく。それに気づいた身なりの良い初老の女性が男に注意をした。男が何か言い返している。
 嫌な予感がして、僕は全身が粟だった。
 揉み合いになり男が初老の女性をドンッと押した。倒れこむ女性が前の人の背中に体重をかけ、次々と列の前方へとその力が伝わり、最前列にいる若い女性を押し出した。短い悲鳴とともにホームから落ちる後ろ姿を見てハッとした。彼女だ!
 助けに行こうと僕の脳が指令を下すよりも早く、すぐ隣の列に並んでいた男が地下鉄の軌道に飛び込んだ。急ブレーキをかけながら近づいてくる車両。彼女をホームに投げ捨てるように持ち上げた男に見覚えがあった。…片岡。僕が彼を認識すると同時に列車が通過した……。

 

――もう一度だっ! もう一度! もう一度、行かせてくれ!

「どうしたっていうの? 助けられそうなの?」

わかった気がするんだ。僕が何をするべきか。あの日、三年前の事故の日、あの場所にいなかった僕が〈やり直し〉で何をするべきか。世界をより良くするために何をするべきか。わかった気がするんだ。

「そう。じゃあ、テイク6」

うん、すぐにでも行くよ。

「でも、闇に気をつけて」

闇に?

「そう、人の心の闇に」

人の心の闇……。

 

《テイク6》

 人混みのなか、男が僕を睨みつけながら近づいてくる。輪郭に沿って黒い影のようなものが見える。なんだろう? 僕は自分の心に問う。
 痛っ、肩をぶつけられた。「チッ」舌打ちまで。

〈頭に来た!〉
〈待て、冷静になるんだ〉
〈わざと肩に力を入れた〉
〈こっちだって、よけられたはずだ〉
〈あれって、ほかのことの八つ当たりだよ〉
〈八つ当たりだろうが、受け流すんだ〉
〈でも…〉
〈自分まで負の感情に合わせる必要はない〉
〈そうだけど、やつは危険だよ。きっとほかの人にも迷惑をかける〉
〈だったら、正せばいい〉
〈なんで、僕が?!〉
〈世界をより良くするためさ〉

 僕は男の後を追った。
 乗車の列に割り込もうとしている。

「ダメですよ。割り込んじゃ」僕は後ろから声をかけた。

 振り向く男の目が僕を睨む。なんて強い憎しみの色なんだろう。男の瞳が煮えたぎった血のように赤黒く見える。

「テメエ!」言うなり僕の胸ぐらを掴んで押してきた。僕らは乗車の列から離れて揉み合いになった。

「テメエ、さっきの突っ立ってた邪魔なやつだろ!」

 男の右の拳が僕の左頬をいきなり捉えた。脳がゆれるような衝撃に、一瞬、目が眩んでよろけたところへもう一度胸ぐらを掴まれ押された。…ホームの端へ。
 こいつ、悪魔か?!
 地下鉄の車両が警笛を鳴らして近づいてくる。運転士と目が合う。その瞳は恐怖に怯えた濃い紺色に見えた……。

 

 

(より良い世界とは?考えながらつづく)

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