弔い酒

【小説】


「マスター、カルバドスをアースロックで」

カウンターの右端に座る商社マンの高槻から声がかかる。

わたしはワイングラスを磨く作業を止め、「承知しました」と答えてロックグラスを手に取り、照明にかざし曇りがないかを確認した。

「最近、地球もだいぶ荒れてきているようですね」

丸い氷を入れたグラスにトロリとした液体を注ぎながら高槻に訊いた。高槻は月の鉱物を加工して地球で販売する仕事をしており、2~3ヵ月に一度月を訪れ、そのたび必ずこの店に寄ってくれる。

高槻はロックグラスに口をつけて、少し深刻そうな顔をした。

「異常気象の連続で、害虫の大量発生や食物の育成に偏りが出て、だいぶおかしなことになってきましたね」

「人への影響も相当大きいんですよね。ニュースで読みました」

高槻は視線をグラスに落とし、丸い氷を指でぐるり一回転させた。

「そうなんです。気候の変化で身体をおかしくして、それが心のバランスまで崩し始めているんです。実はうちの妻もその病にやられました」

わたしはグラスを拭く手をとめて高槻を見た。

「そうですか。それは、なんともつらいことですね」

「こうやってここから見ると、こんなにきれいな星なんですけどね」

高槻は、カルバドスのロックグラスをカウンター越しに見える地球と重ねた。


チリンと鈴の音がなって、入口の扉が開いた。

背の高い女性を目のはしに捉えたと同時に、「こんばんわ」と聞き慣れた声がした。

「いらっしゃい」とわたしがいうときにはすでに、月子はいつものカウンター左端の席に座っている。

「赤ワインですか?」

月子は少し考えて、「重めがいいな」と答える。

わたしは開いているボルドーのボトルをカウンターに出し、ワイングラスに注いで月子の前に置いた。

「もう、飲んできましたか」とわたしが訊くと、月子は一度口をギュッと結び、そして微笑した。

「一周忌だったから。お墓の前でワイン開けてふたりで飲んだ。生きているときは、お酒飲めなかったからね、葉月は」

「そうですね。葉月さんはここでもノンアルコールでした」

「はぁ、これで葉月の歳に追いついちゃった」

月子は天を仰ぐように上を向くと、「このまま時間が止まればいいのにな」とつぶやいた。

「生き残った者は、先に逝った者の分まで懸命に生きなければいけません」

ありきたりな陳腐な言葉だとは思うが、月子にはそうあってほしいと思う。

「<生き残った>という言葉、私にぴったりだよね...。はい、私は生き残った者です。先に逝った人の分までがんばります!」

月子はワインをひとくち飲んで、カウンターの右端に座る高槻を見た。

「あれ? 月子さん、高槻さんは初めてですか?」

「ええと、たぶん」と月子が答え、わたしは月子を高槻に紹介した。

「娘です」と言うと高槻はきょとんとした表情を見せ、「いやいや、マスター嘘ですよね」と言う。

月子が「娘です」と自分を指し、「父です」とわたしを指した。

「えっ、あっ、本当なんですね。ごめんなさい、疑ったりして」

月子は胸の前で手を振り、「いえ、いいんです。父はあまり私のことを人に言わないので」と言い、ねっ、とわたしを見た。

「月子さんもですけどね」とわたしは返す。

「いやあ、全然知りませんでした。でもマスターのお歳からすると、そうですよね、僕や娘さんくらいの子どもがいてもおかしくないですよね」

「養父なんです。だから、似ていません」と月子は楽しそうに笑う。わたしを<養父>と紹介するとき、月子はいつも敢えて楽しそうに振る舞う。

わたしもそのニュアンスを崩さないよう、「実は、右手の小指の爪のかたちが似ていたりはします」などと、ふだんあまり言わない冗談を言ったりする。

「とても、素敵な父娘に見えますよ」

高槻がこの場合の模範的な回答を口にする。


月子を養子に迎えて10年が経つ。月子は生まれてまだ物ごころもつかないうちに母を亡くし、そして25歳で父を亡くした。それから父がそうしたように、月子はこの店に通うようになった。

わたしは幼い頃からの月子のあり様を、彼女の父親の言葉を介して知っていた。だから初めて父親に連れられてこの店にやってきた月子と会ったとき、自分の頭のなかで成長してきた彼女が突如として現実の世界に現れたようで、不思議な感覚がした。

そして次に彼女がここを訪れたのは、父親の葬儀を済ませた日の晩だった。

わたしは、店名でもあるムーンビーチというカクテルを彼女に差し出して、彼女の父親の話をした。まだ月でBarを始める前、渋谷のBarでカウンターを挟んで話した時代から、20余年のときを経ての、その半生をゆっくりと彼女に話した。それはふたりによる弔いだった。彼女はときに涙ぐみ、ときに笑った。その夜は閉店後も看板を下ろして明け方まで話をした。

それから3年の後にわたしたちは親子になった。月子から言い出したことだったが、わたしもそのつもりでいた。わたしは彼女の父親から月子という娘を愛する感情まで引き継いでいたし、月子もそれを察していた。わたしには家族はなく、月子も天涯孤独だった。わたしたちが父娘の関係になることは、まるで予め定められていたかのようだった。

ただ、戸籍の上で親子になっても互いの生活は変えていない。月子は月子で自分の生活を守り、わたしはわたしでこの店の二階に住み、趣味みたいな仕事を自分なりのペースで続けている。

月子は週に2~3回、仕事が終わるとここに寄る。彼女いわく、客としてだ。

「父親がやっているBarに、娘が客としていくのがいいのよ」

だから、月子はこの店で十指に入る上顧客でもある。


「マスター、なにか軽めの赤ワインをグラスでもらえますか」

高槻から声がかかる。わたしはブルゴーニュを開けて、高槻に差し出した。

月子が高槻と会話している。互いの仕事内容について話しているが、細かなところまではわたしにはわからない。いつの間にか月子は、大人のような顔をして仕事の話をするようになった。それもそうだ。月子はもう38歳になるのだから。

「高槻さん、実は今日、娘の親友の一周忌なんです。もしよろしければ、一緒に杯を捧げてやってもらえませんか」

わたしはムーンビーチを3人分作り、ふたりの前に置き、ひとつを手に持った。

「では、葉月さんという素敵な女の子のために」

3人で杯を上げ、グラスに口をつけた。

「葉月はもう女の子という歳ではなかったけどね」月子が笑顔で言う。

「わたしにとっては、葉月さんも月子さんも女の子ですよ」月子の青い瞳を見ながらわたしは言う。

「よくわからないで言うのも失礼かと思いますが、葉月さんは幸せですね。こうして温かい気持ちで杯を上げてくれる人たちがいて」

高槻の言葉にわたしは月子を見て、そして言った。

「はい、わたしが言うのも立場が違いますが、わたしも葉月さんは幸せだったと思います」

月子は黙ってグラスを空けて、カウンター越しに地球を見た。そして顔を覆うとそのまま微動だにしなかった。

指の隙間から涙が滲んでいる。

わたしは、改めて月子に声をかける。

「生き残った者は、先に逝った者の分まで懸命に生きなければいけないよ。そして、幸せにならなければいけない」

月子は顔を覆ったまま、ウンウンと頭を振る。

「月子さんはすべてわかっているはずです」

月子はウンウン、ウンウンといつまでも頭を振り続ける。

わたしはカウンターから手を伸ばし、月子の頭に指先で触れた。本当の父親が生きていたら、やはりそうしたはずだ、と思った。


※この作品は、月にまつわる物語の連なりの一篇で、時間軸としては『ムーン・チャイルド 前・後篇』の後、『船を見に行く』の前となります。


tamito

作品一覧

#小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?