深海より愛をこめて ⑥

【小説】

 

 ゴォーという大きな音とともに、風を巻いて電車がホームに滑り込む。赤いラインの車両、丸の内線だ。反対側にはオレンジのライン、銀座線が止まっている。そうか、赤坂見附の駅のホームに僕はいるんだ。でも、どこへ行こうとしていたのだろう。直前の記憶が曖昧だ、というより……ない? 僕はどうして、いつから、ここに立っているのだろう。
 満員電車から吐き出された人の波が、ぎりぎり当たらないように僕をよけて改札へと向かう。まるで川の中州のように僕だけが流れを遮っている。そして改札からも小走りで電車に乗る人の波がやってくる。その中に、僕を睨みつける視線がある。まっすぐに僕に向かってきて、すれ違いざまに右肩をひねり、わざと僕の左肩にゴツンと当てた。思わず右手で押さえるくらいの衝撃を受けて、咄嗟に頭に血が昇る。「チッ」という舌打ちが聞こえ目で追うと、すでに男はスーツの群れのなかで見分けがつかない。いや、こんなところにぼんやりと立っている僕が悪いのだ。だけど……。

 都心の交通機関ではちょっとしたことで感情がむき出しになる。乗車前の整列への割り込み、席取りに負けての逆恨み、わずかな隙間に座り強引に肩をねじ込んだり、ゲームをする腕の小刻みな振動、混んだ車内でぶつかったの、足を踏んだの、等々。日常のストレスが小さなきっかけひとつで一気に沸点に達する。よく、他国から見た日本人の印象はまじめで我慢強いと言われるが、都心で日常的に電車やバスを利用する者にとっては、トラブルに巻き込まれないよういつだって注意を払わなければならないほど、むき出しの感情に出合うことが多い。
 そして、もっとも危険なのが狭いホームでの整列乗車だ。悪気なく押し合いになった結果、最前列の人が前に押され、入ってくる電車すれすれでヒヤっとすることがある。いま、都心の地下鉄は落下防止の柵を各駅で取り付け中だが、この赤坂見附の駅はまだそれが付いていない。

 目的を失ったまま、僕はホーム中央のベンチにたどり着き、腰をおろす。この駅は新宿へ向かう丸の内線と渋谷に向かう銀座線がホームを挟んで乗り替えられるため、常時、人があふれている。
 今日、僕は何をしているのだろう。平日なのにかなりカジュアルな服装だ。まるで、長い夢から目覚めたようにぼんやりとして、目に映るもののことにしか思考が及ばない。ほとんどがスーツを着た男女だ。僕もふだんはこんな人の流れに自然に乗っているのかと思うと、改めてその異常さに気づく。そして、あまりに速い視覚情報にめまいがして目をつむる。

「キャッ!」という女性の短い悲鳴とともに、ギーーという急ブレーキがかかる音が構内に響きわたる。振り向くと急制動をかけた車両が止まり、ホームと車両の隙間を覗きこむようにしてひとりの女性が悲鳴をあげている。その声に聞き覚えがあった。
 僕は、集まってくる野次馬を押し退けて、その場所に向かう。叫び声をあげる女性の後ろ姿が近づく。間違いない。彼女だ。僕は彼女の肩に手をかける。

「何があったの? 誰が落ちたの?」

 振り向いた彼女の目が僕を捉えて瞬間静止する。

「片岡くん、片岡くんが……」

 泣きながら僕の両肩をゆさぶる彼女を抱きとめて、ホームと車両の隙間に目をやる。

「片岡がっ! 片岡がこの下にいるの?!」

 いったいどうしたと言うのだ。なぜ、彼女と片岡が一緒にいて、なぜ、片岡がこの電車の下にいるのか、なぜ、僕は〈ここ〉にいたのか、なぜ……。何もわからないまま僕は、ぎゅっと彼女を抱きしめた。

 

気づくと暗い海の底にいた。
隣に人の気配がある。

「間に合った?」

ん、僕はどこに行ってたのかな?

「思い出せない?」

うん、頭が痺れるように痛いんだ。

「助けに行ったはずなんだけどね」

助けに? 誰を?

「あなたのお友達? 地下鉄の軌道に落ちて死んだ」

 友達? 死んだ…? 地下鉄……? イメージの欠片が浮かぶ。地下鉄のホーム、人だかり、泣き叫ぶ声……。うっ、胃袋から何かがせりあがり僕はそれを吐き出した。

片岡、片岡が死んだんだ。僕はその現場にいた。でも、なぜ?

「あなたはそのとき、あの場所にいなかったことを悔やみ続けていた。ずっとね」

これも〈やり直し〉だと言うの?

「助けたくないの?」

助けたくない? ……いや、助けたいに決まってる。片岡は、ホームから落ちた彼女を助けて身代わりとなって死んだ。彼女がどうして落ちたかはわからない。でも、僕のせいなんだ。僕は彼女がホームから落ちたときに別の女の子といたんだ。彼女の身代わりになるのは片岡ではなく、僕でなければいけなかったんだ。

「どうする? これはやめとく?」

いや、やめない。僕は彼女を、片岡を助ける。例え、ふたりの身代わりになっても。でも、僕はテイク2を活かせなかった。

「うん、だから、テイク3」

テイク3……。行くよ。チャンスがあるなら何度だってやる。でも、向こう側に行くと記憶がゼロに戻って、いちから状況を把握しなくちゃいけないんだ。どうしたら間に合うのだろう。

「大丈夫。慣れるわ」

慣れる?

「じゃあ、行く?」

うん、とにかく行ってみるよ

「いい? 頭で考えないで。心で感じて」

……心で、感じる。僕は目を閉じて心に意識を集中する。

 

 

ゴォーと地下鉄の車両が風を巻いてホームに入ってくる。僕はゆっくりと目を開ける。

 

 

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