贖罪 心

【小説】

 

 彼女が泣き出したのは、僕や僕の人生とはまったく関わりのないことで、明確な理由は語らなかったが、とにかくそれまで堪えてきた気持ちが突然溢れたのだと思う。ハンカチで顔を覆いながら声もなく涙を流し続ける彼女に僕は何の言葉もかけられず、ただ、背中にそっと右手をそえていた。
 僕らはまだ親しい友人の間柄で、公園のベンチに座って話をしていた。彼女の来し方、現在の置かれた環境、いつだって身のまわりのすべてを背負いながら緊張をとけずにいること。解決できない問題が山積みで頭のなかでぐるぐるとリロードしている。

「もっとふつうに生活して、ふつうにしあわせになっている人もいるんだよね」
「ふつうに見える人だって、人前では体裁を整えているだけかもしれないし、ふつうにしあわせに見える人だって、将来もふつうにしあわせであり続けられるかどうかはわからないよ」

 彼女がもし何らかの答えを僕に求めていたとするならば、決してそんな言葉じゃないことだけは、言いながら気づいていた。気づいてはいたけれど、僕にはそんなことしか言えない。

「でも、そうした言葉のやり取りをくりかえして、彼女はきみのことを信頼していった」
 もうひとりの僕が言う。
「それはそうかもしれないけど」
「並んでゆっくりと育った二本の木のように、入口のところできみと彼女は長い助走期間を共有した」
「でも、最後には僕は彼女を絶望的なまでに深く傷つけた」
「傷ついたのも、どう治療するのかも、それは彼女の問題だよ」
「そんなふうに割りきれるわけがないだろ」
「だったら何がなんでも、きみは彼女を傷つけるべきじゃなかったし、全力で守り続けるべきだったんだ。そうじゃないか」

 僕はやまない雨のなか、夜更けの公園を歩いている。池に架かる橋の上、紫陽花の植え込み、植物園の看板、古びた民家のような茶屋、池に浮かぶ神社の鳥居……どの場所にいても彼女の影が亡霊のようにつきまとう。
 池の畔のベンチに座り、タバコを吹かしていると、また、あの鴨が陸にあがって僕に向かって歩いてくる。その歩き方がどうにも確信的で、足下までやってくると僕の顔を見あげて言った。

「その煙がでるやつ、なんとかならないのかな」

 突然のことに僕はしばらく鴨の黒目勝ちな瞳を見つめ、変な想像をしたものだと苦笑いしながら軽く頭を振ってみる。

「人が話しているんだから、まじめに聞けよ。あ、鴨だけどね」

 いやいや、いくらなんでもそんなことはあり得ないし、僕はぐるりあたりを見まわし声の主を探す。

「その煙がでるやつをなんとかしろってば」
「あ、ああ、わかった」と僕は携帯用灰皿に吸いかけのタバコをねじり込む。

「オイラもたまに見かけるんだよ。彼女の影」
「え、どういうことだい」
「いつも、コメ菓子をくれてたじゃないか。オイラも彼女に恋していたんだよね」
「鴨なのに?」
「あーあ、これだからあんたは女の子の気持ちがわからないんだよ。いいかい、この世の中のすべての事象を気持ちで考えるんだ。人間だけじゃない、ミミズだって、オケラだって、鴨だって、ただ餌を食べて子孫を残しているだけじゃないんだ。みんなおいしいコメ菓子を食べればうれしい気持ちになるし、ボウガンで狙われたら怖いし、仲間が死んだら悲しみに暮れる。そうしたことを、あんたは心で感じているのかい、頭で考えるんじゃなくて」

 僕は鴨の言葉を黙って聞き続ける。

「だから、あの子はあんたから離れていったんだ。殺してもいないのに殺したことにして、傷ついた彼女を救うことをしなかった。あんたは最低だよ」

 そう言うと鴨は踵を返して、また池へとペタペタと歩いて行き、ガーとひと言鳴いて、水面に身体を浮かべた。

 

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