贖罪 荷

【小説】

 

「こんなにゆったりとした気持ち、ひさしぶりだな」

 大きく伸びをして彼女が言う。 僕らは信州の安曇野に来ていた。
 彼女が僕のことを信頼してくれていることはわかっていた。でもそれは僕が彼女に向ける気持ちとは種類の違うもので、それでも彼女の固い蕾のような心を解きほぐすために僕は最大限の努力を払った。彼女との会話のなかに潜むヒントを余さずにキャッチし、表情の変化にサインを読み取り、物言わぬ赤子に接する母親のような寛容と細心さですべてを受け入れようとした。

「ほんとうにありがとう。連れてきてくれて」
「僕が来たかったんだよ。こちらこそ、一緒に来てくれてありがとう」

 北アルプスから湧き出た雪解け水が田畑を縫うように流れ、扇状に拓けた広大な盆地にさまざまな作物が実る秋。朝霧や夕靄が陽の光と交錯してきらめき、鳥の群れが形を変えながら大空を旋回する。見あげた空は少し灰色を帯びた淡い青、浅縹(あさはなだ)。

 十五歳で大人になったと自覚して以来、彼女はさまざまなものを背負ってきた。掌のうえで転がるような処すに容易いものから、自分の器をはるかに超え、背骨を軋ませるようなものまで、ありとあらゆるものを自ら背負い、まわりの大人たちも押しつけるように彼女に荷を預け、そして目を背けた。
 重荷を背負い浅い呼吸で歩き続ける彼女を見て、「あの子はそういう子だから」と誰かが言った。それは彼女と最も血のつながりが濃い誰かで、でも、彼女にとってはもはや必要のない誰かであった。
 そういうときに何をどう感じて、それをその後の生き方にどう活かそうと考えたか、そのときの絶望的な、けれど懸命に前を向こうとする表情さえも、彼女の言葉を通して僕の心に刻まれた。僕との距離が近づくにつれ、彼女は一つひとつ魔術師が大事なタネを明かしていくように、そうした心の内側を見せてくれた。

「やりすぎたんだよ」
 もうひとりの僕が言う。
「どういう意味だよ」
「きみは彼女の母親でも父親でも恩師でもない。彼女と同じ、たかだか二十代前半の若僧だったんだ」
「だからなんだ」
「すべてを受けとめるなんてできるはずがない」
「そんなことはわかってる。誰だって誰かのすべてを受けとめることはできない。でも、意思の強ささえあればやれると信じた」
「そして、最後には放り出した。最悪な結果だ」

 もうひとりの僕が言う通り、僕は最後には彼女のことを投げ出した。理由はいろいろある。だけど、どんなに正当に見える理由を積み上げても、それはすべて言い訳に過ぎない。僕は彼女を殺した。

「あの山きれいだね」彼女がカメラを向ける。
「穂高岳だよ」僕が答える。

 その日、穂高岳では七人の遭難者が出て、二人が斜面から滑り落ちて死んだ。遠めに美しいものが見た目通りとは限らない。人生とはそういうものだ。


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