死刑廃止論者は、被害者ではない

だから、被害者の気持ちなんて絶対にわからない。被害者の遺族ですら、被害者でない。そして、国家の法律による死刑は被害者のため、被害者の遺族のためにあるのではない社会が求めるルールに逸脱したことに対する、その社会が定める罰則だ。

死刑になるような罪を犯してしまう社会が悪いからといって、その社会の構成員が、ルールを決め社会として罰則を与えないなら、その社会でルールは無視されていくだろう。

死刑を行う人が心に傷を負うのを軽減する、その嫌な仕事を社会がどう分担するのかを考えたり、変えるのと、社会がルールを破った構成員の罰則をなくすのとは、意味が違う。

死刑とは最大限の、社会が犯罪者に与える罰則である。では、人を殺めるというのは、人が行う最大限の罪ではなかろうか? 人が行った最大限の罪に最大限の罰則を社会が与えるのは、どれだけそれが辛くても厳しくても、社会全体の責任だと思っている。

その責任を放棄するのではなく、そのような刑罰を行う必要がない=誰も他者を殺めない社会にするべく、努力することと、それがかなうまで、社会としての責任を遂行するというのは、国という共同体(人を裁くことが認められ、その責任を構成員が委託している)の責務だろうと自分は考える。

私は世界の一般常識とか、他国の風潮なんか、どうでもいい。仮に、日本が死刑制度があるから、世界で半数以上の他国民が軽蔑するなら、すればいい。私はその義務(人が行った最大限の罪に、社会が最大限の刑罰を与える=その命を奪う)という責任を負わない集団と、その構成員を逆に軽蔑する。それは卑怯なだけだ。




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