ジェンダー間の政治権力の公平 2

今の日本の国会の様子は、ある意味女性天国かも知れない。もちろん、それはあくまで、どんな異性が政治家になって、どんな態度でどんな発言をして、個々の政治家をどう感じるかという、比較対象にできる異性の政治家選択肢が多いという意味においてのみであるが。

官房長官への不信任案(否決されるのが前提の儀式ではあるが)で、国会議員が一斉に投票する様子を見ていて、オッサンの私が、ただただ感じたのは、やはり日本の政治はオスのオッサンばっかりで、なんでこんなにむさ苦しいのだろうだった。

日本の国会が、ともかくむさ苦しいのは、(男が見て)単純なことで、男性にとっての異性がそこにほとんど存在していないからだ。そしてどーせ、オッサンばかりで考えるオッサンらしい政治家集団の中で、一割ほどの女性が混じっていて、本人がどう考えていようが、同性の女性議員が少ないことを逆に利用して、「オッサン達に気に入られるのが上手くなっていく」か、「オッサン達に負けじと、態度や喋り方までオッサンと同じスタイルでアピールする」という、両極端になっていくのだろうと、勝手に思ってげんなりしている。

当たり前だが、女性と男性は結局、国会でも格好が違う。特に、不信任案決議みたいなイベントでは、当然男のスーツは黒っぽく、ネクタイ着用だ。一方で、女性はスカートだ。(パンツスーツ姿もあるだろうが)それがTPOとかいうやつだろう。

つまり、なんだかんだいって、男と女が、人類の大まかな生物学的区別として、あるわけで。 もちろん、その中でゆらぎのようなものもあるんだが。 肉体的特徴として、本人が好む好まないに関わらず、生まれたときからほぼ決まっている、性によるそれを否定することなんて不可能だ。
(性転換、あるいは、自認としての性で、変更するかしないかはともかく)

まず、生物学的にある男と女という二つのグループが、(どっちを自分が選ぶかはともかく)平等に、政治的決定権を持たない限り、絶対にその集団内での男女平等は実現しない永久にだ。

子育て支援とか、様々な、個人レベル、あるいは民間レベルでの、暮らしの役割での男女平等よりずっと前の基本として、男女の政治決定権の正常な分配が行われない限り、この国の政策は常に片手落ちだろう。

そして、その歪んだ構成のまま出てくる少数派の女性議員は、政治決定の場における歪みの影響を受けざるをえず、本来のその性を代表する意見が見えづらくなると思う。

もちろん、今までずっと違ったのだから、突然女性議員を増やせば、最初は女性議員は、圧倒的多数であり続けていた男性議員よりも、色んな面で物足りなく感じることもあるだろう。だが、そんなの当たり前だろう? それが本来の人口比率における、政治家としての能力を発揮するまで、より機会を与えて待つのは当然だ。

当然女性議員の入れ替わりは、そのために激しくなるかも知れない。それでも、私は男性議員枠、女性議員枠を、元から作るべきだと信じて疑わない。
有能(国政を担う上で)かつ公共への真摯な熱意のある女性国会議員を目指すために、(政治はカネがかかるという政治家の言い分を真面目に考慮するとして)特別な公的援助が必要なら、それこそ国民が集めた税金を使うべきだろう。

そして二つの異なる性の議員が毎回選挙があるたびに、確実に同じ数になるべく、比率を近づけていくべきだろう。

目指す目標は、二つの元からある性の違い、それがもたらす様々な違いに根ざした(いい悪いではなく、また例外があるのはわかっているが)政治決定権が、二つの性に完全に平等に与えるのが正常だろう。それを否定するなら、政治決定権は平等でなくていいと言うのと、本当のところは何も変わらない。つまり、男のほうが女よりも、政治能力が高いと思っているわけだ。

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