星の時計のLiddell を買うということ

 自分がかつて内田善美さんの漫画にどれほど癒やされたか思い出し、ぜひともあの美しい絵や、物語をより多くの人に薦めたいと、もう一度読もうと思ってAmazonで購入しようとした。

内田善美さんはもう、自分の作品の版権を許可しないので、おそらく今この世界に出回っている彼女の本がなくなれば、著作権が完全になくなるまで、再販はされない。 これはなんというか、とてもとても、ファンにとっても読者にとっても悲しいことなのだ。一方で、だからこそ、その輝きは「金で買えない何か」にすら思えてしまう。

でも、私には、内田善美さんが、自分が描いた漫画が、当時の何倍もの価格で一部のマニアやコレクターのためだけに流通するのを願っているとは思えない。時計に500万使える人がいるように、車に1000万払える人がいるように、あるいは好きなタレントのために、自分の生活費を削ってまで捧げる人がいるように、私も、内田善美さんの作品集が10万で手に入るなら、買うのは構わないと、本気で思う。 何度もクリックしそうになった。

でも、たぶん、私はそうやって手に入れた本を、昔と同じような気持ちでは絶対に楽しめないだろう。どうしてもそれは、読んで感じる価値ではなく、購入する前に決められた価値としか思えなくなってしまうから。

たとえば今読み返したら、当時結局分からなかったことが色々はっきりとわかるかもしれない。あるいは、それはやっぱりあえて伏せられていたり、そもそも「考える」べきものではなく、ただ「感じる」作品だったと思い直すかもしれない。

だが何より怖いのは、今の自分がどう感じるかではなく、それだけの「価値」だと思って購入し、読み直した時に、「購入した金額と、価値の比較」を、今の私はやはりしてしまうだろうから。 

そして何よりも、たとえ私が内容について書きオススメしたところで、それを手に入れることは、私が、一番読んでほしいと思っている、たくさんの昔の私であればあるほど、きっと難しいだろうと感じるからだ。

 昼ごはん代として渡されたお金をコツコツと削って文庫本を手に入れ、鞄にしまって親の目を盗んで読んでいた時、放課後塾に行くまでの間、図書館で読んでいて夢中になりすぎて時間を忘れてしまい、遅れそうになり急いで下校したのに地下鉄の中で、本を忘れてきたことを思い出し、塾はサボって急いで学校に戻り無事に手に戻った時の喜び、その時の司書先生との会話「もしも取りに来なかったら私が持って帰って読んでた。」と言われた時、少女漫画なんぞ読んでいる男子生徒の感性をそのまま認めてもらえた気がして嬉しかったことなんかが、頭の中を巡り、その時の気持ちのままもう、楽しめない気がして仕方がないのだ。

もちろん、それだけの価値がつくのは当然で、それでも安いぐらいなのかもしれない。だが、やはり、あの作品は誰かの芸術作品と同じような金で買うモノであってほしくない。とうとう昔の少女漫画も、もう二度と同じ気持ちで楽しめないものとなってしまったのだろうか。

それは少しずつぼやけ、色褪せ、捨てたのに心の中に今も残っている、はるか昔の誰かとの写真のように、時たま拾い上げては思い出すしかできず、奥にそっとしまい込む、個人的な思い出としか存在し得ないのかもしれない。

そして私が、あるいは誰かが内田善美氏の作品集を再び、あるいは新たに手に入れたとしても、それはもはや、共有される何かではなく、ただの個人的な贅沢で終わってしまう気がする。

内田氏にはなんとか、あの作品をまた世に広める機会を考えてほしいのだけど、、、。

星の時計のliddell や、空の色に似ている、を見て、読んで、思春期の若者たちが何かを感じ取ることが、もはや簡単にできないという事実が、私は、ただただ無性に悲しいのだ、、。


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