ほとんどのことは、自分で考えりゃええこと

 昔は、哲学とは賢人の考えを知ることだとずっと思っていた。いや、もっとはっきりいうと、いわゆる哲学者とか、社会研究科とか、著名な学者などが書いた様様な本や、まとめられたものを読み、それを土台にあーでもない、こーでもないと、と○○主義とか、イズムとか、○○思想とか、誰かが定義しラベルを付けた思想を学び、それを自分の思考として、行動規範にするのが正しい哲学だと思いこんでいた。

もちろん、国や地方といった集団をまとめあげる必要がある政治あるいは、会社のトップ等ににとっては、これらの「誰かが考えた思想」や、「誰かが名付けたイデオロギー」に頼る必要があるだろう。まぁ、宗教の書物の中の言葉にも、そういう側面があると思う。古くは十戒とか。

だが、少なくとも一般的な個人の社会的活動や、日常生活においてなら、実際のところ、ほとんどのことは、別に誰かが言わなくても、誰かの書いた本など読まなくても、自分で考えれる

哲学書や自己啓発本を読み漁る必要など全くない。○○主義だとか名前を覚えたり、○○イズムだとか、誰かの講釈を聞く暇があれば、(結局ほとんどは受け売りなのだから、あるいは、もしそれに納得しているなら、ようするにあなたもそう考えていただけなのだから)

むしろ、誰かの考えをなぞるその時間を、まっさらなところから、自分で命や時間、生き方について思考をめぐらしているほうがずっと、私にとっては大事な哲学に思える。多くは、酔っ払いの戯言のようなものであっても、一つ、2つ、自分がこうであると納得できる「土台」が、いつのまにか見つかり、その上により現実的な選択が、日々の情報やさらなる思考で少しずつ変化していくのだが。 

これのいいところは、自分でじっくり考えたと明確なだけに、「アレは本当なのか? 間違っていないか?」などと、毎度ゆらぐこともなければ、それよりマシな考え方にたどりつければ、切り替えるのも簡単だ。

LGBTQであれ、移民の問題であれ、ジェンダー平等であれ、フェミニズムであれポリコレであれ、あるいは憲法改正であれ、核抑止であれ、IDカードであれ、○○さんはこう言っている、というのは、実際のところどうでもいい。誰が書いたか、どんな著名人が言ったかではなく、何を言ったかだけであり、多くの場合、それに納得できるなら、それはあなたがすでに考えていたことだと思う。

 無宗教であるのと同じで、私は心の師とか、メンター(完全に頼るという意味で)など必要としないし、言論人が誰かと議論した後、論破!!とか言って騒いでいる人を見ると、一体その人達は何を喜んでいるのか、不思議で仕方がない。

なぜなら、多くの場合、その人自身は何もしておらず、ただ人の思考をそのまま取り込んだだけで、自分の嫌いな誰かがやりこめられたと思って、気持ちよくなっているだけで、せっかく、自分と違う意見を聞いて自分の哲学をアップデートする機会をうしなっているのだから。 




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