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【雪と人】 在るだけの性質を、信じたいように信じるのが世界なんだと思う

「あぁこりゃぁ、いい天気だねぇ」

歩きにくそうに雪道をたどるおじさんが、雪かきをする私をみて皮肉めいた口調で挨拶をしてきた。

「あはは、そうですね」なんて笑って返しながら、空を見上げてみる。
山と空が霞むほどに、粉塵のように雪が舞っていた。

昨日から、しんしんと、ときにゴーゴーと雪は降り続け、景色は一晩で一気に変わってしまった。

真っ白に染まった山と街。
それはとても幻想的で、昨日とは違う世界に誘われたようで、私は少しワクワクした。
葉や枝はモコモコの雪のコートでも着たのかな、と思うくらい白を纏い、
太陽がでてくると小さく透明な宝石のようにキラキラと光って、いつまでも見ていたくなった。

手ですくってみると、サラサラとこぼれおちてしまう。
東京の水分の多いベシャベシャの雪とはまるで違う様に、思わず感動してしまう。


「――いやもう、明日の除雪が大変だなぁとしか考えられませんよ」

昨晩、大雪の様子をみて、雪国で育った青年はそうつぶやいた。
除雪はとても重労働で、除雪機が入れない場所をスコップでかくのはもちろんだが、除雪機の当番のときは朝4時から出動して、昼まで活動するそうだ。

「雪」
という単体でそれをみたときは、ただその性質をもってそこに在るだけだ。

白くて、冷たくて、ふわふわで、時間がたつと固くなって、たくさん持つと重くて、持ち上げると崩れて、固めれば丸くなって‥

その性質を、どう捉えてどう解釈して、どんな感情で見つめるのかは、捉える人次第だ。

やっかいなものとして捉えるのもよし。
珍しいものとしてはしゃぐのもよし。
日常の一部として捉えるのもよし。
綺麗なものと捉えるのもよし。
遊び道具として捉えるのもよし。

なので、先程の雪国住人のセリフは、捉え方をネガティブにみているよねとか、そういう話ではない。

雪に慣れていないものは、雪の恐ろしさや面倒な面を知らず、美しい面しか見えていない。
他人の家の赤ちゃんをみて、「かわいい〜」というのと同じだろう。

苦労する部分も含め、雪を受け入れて共生しているのがここの人たちだ。

「人」はどうだろう。

「人」
という単体でそれをみたときは、ただその性質をもってそこに在るだけだ。
からだ、こころ、顔、声、気質、性格。

平凡な人として捉えるのもよし。
クレイジーな人として捉えるのもよし。
面倒な人として捉えるのもよし。
美しい人として捉えるのもよし。
根暗な人として捉えるのもよし。

自分は平凡だと思っている部分が、他の人からしたらクレイジーかもしれない。
自分は面倒だと思っている感情が、他の人からしたら愛らしさに映るかもしれない。

自分で自分をそう捉えているだけで、他人は自分をそう捉えているだけで、
性質はただ在るだけなんだろうと思う。それ自体にプラスもマイナスもない。

性質は全体で補完しあって、『全体性』を保っている。

雪が、美しさと煩わしさを兼ね備えるように。
人が人と深く関わるときに、嫌な部分も含めて愛するように。

すべては価値であると信じることもできれば、
すべては無価値であると信じることもできてしまう。

人も雪も、万物も、なんだかそういう捉えどころのない危ういものなんだと思う。

だからこそ、信じたい。

『人間とは、生まれつき満ち足りている、全体性のある存在である』と。

これは、「コーチングマインド」として習った言葉ではあるが、
本当の意味で心得として持つには、まだまだ解釈も実践も足りていないと感じる。

コーチとしてに限らず、地球上に生きるひとつの生物として、
雪をながめながら考えた、コーチング勉強中の身のつぶやきなのでした。


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