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箱庭の世界と喜劇(コメ)

人間失格で好きなシーンがある。
堀木と身近にあるものについてトラとコメ(悲劇名詞か喜劇名詞か)を考える言葉遊びのシーンである。
私はこのシーンを読んだ時に目から鱗が落ちるような思いだった。なんと洒落た遊びだろうか。
そして人生に迷った時、辛い時、私はこのシーンについて思い出す。

理不尽な要件変更は?
眠れない夜は?
将来の見えない会社にいることは?

これらは全て私の中では「悲劇」である。
では一体何が喜劇となりうるのか?
私はこの2年、テレワークと称した引きこもり生活の中で何度も考えた。答えは見つからなかった。

楽天的に考えることで全てを喜劇に塗り替えてしまうことも可能だろう。皆が我慢をしている時だから仕方がない、と言えばそれまでだ。しかし、それらは喜劇の可能性を狭めることに他ならない。

そして私は全てを諦めた上で決意した。
全てを認めてしまおう、と。

コロナ禍になる前から世界は悲劇だ。
コロナ禍だからといってそれは変わりはしない。
そしてその悲劇の上に我々は生きている。
この大いなる悲劇に比べたら全ての事象は喜劇としかなりえない。

先の見えない自粛期間は?
ワクチン不足は?

連日ニュースで取り上げられるけして笑える話ではない。コロナ前の生活に完全に戻ることは不可能だ。しかし、あまりに悲劇であると失笑してしまう。笑うしかないのだ。それはもはや喜劇だ。

だから前を向いて生きていこうとか元気をだそうとか嘘くさいことを言うつもりはない。

もしあなたがその悲劇を前に絶望をしているのであれば、その劇に飛び込んで「おいおいどうなっているんだい!」と皮肉って笑って仕舞えばいい。苦しいと言った上で「全く話が違う!これじゃ悲劇じゃないか」とアメリカンに手を広げて大袈裟に失笑すればいい。

その時点であなたの中の悲劇は喜劇に変わる。

どうかこれを読んだ方に新しい喜劇が始まることを願う。

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