バスキア展
「無題」ZOZOの前澤友作社長が落札したことでも有名なバスキアの作品。
鮮烈な印象のブルー。描かれているのは頭蓋骨だ…以前からこの絵の存在は知っていた。それなのに、この作品をまじまじと目の前にして、鳥肌が立っていることに気がついた。
例えば、美しいものを見たときに、言葉での説明が追いつかず、言葉の限界を感じることがある。
思考や知識が感性の邪魔をして、振り払いたいほどに煩わしく思うこともある。
だが敢えて言葉で説明するならば、今回のこの鳥肌は、ひとりの人間の剥き出しの感性に、露骨に触れてしまったという、慄きに近い。見てはいけないもの。目を逸らしたいもの。まさにそれと、いま対面してしまっている。そんな感覚だ。
表現とは何だろう。アーティストとは何だろう。
無意識に自問するきっかけになった。
沢山の単語。抽象的なイラスト。ベタ塗りされた色。「解読」が難しい。バスキアの作品の特徴だ。
それでも、無料で貸し出し可能な音声ガイドでは、作品についての説明がいつも通りに細やかになされる。
アイデンティティや政治的態度、バックグラウンドに結びつけた作品解釈は、いつもながら、とても勉強になる。
だが。
今回は何故か、それらの説明がノイズに感じた。
バスキアの作品は、言葉での「解釈」で味わうものではないのだ、と思う。作品があまりに感性に振り切っているため、因果関係などの論理的な説明が、机上の空論のように浮いてしまう。
館内では、バスキアが、路上の壁や土管、捨てられたドアなどに、自由に、心が赴くままというふうに、スプレーで絵を描いている…そんな様子が放映されていた。
日本でも、若干治安の悪いイメージのある路地裏の壁で見るような、あんな感じのスプレーアートを施していくだけの動画だ。
そんな所に描いてはいけません!
ノートに描きなさい!
そんな大人たちの注意はそこには存在しない。遠巻きに物珍しそうに見物する客たちもいない。
日本じゃ真っ先に取り締まられそうなくらいに大胆に、自由に、壁を彩っていくバスキアの姿に、目が奪われた。
私の思考は、「反社会性」と名付けられる概念と、「表現」なるものの対峙の間で、揺さぶられていた。彼はあんまりに自由に、あんまりに感じたままに、ストリートを彩ってゆく。息をするように自然に、軽やかに。それは見方によれば非行少年のラクガキのようなものに過ぎない。
それなのに、彼は黒人アーティストとして、そして20世紀モダニズムの巨匠として、駆け上がっていくのだ…かのアンディ・ウォーホルに認められるほどの逸材として。
私は当たり前だった自分のスタンスにショックを受けた。そのスタンスとは、普段、意味ばかり考えて生きている、というある種の「癖」だ。アートを見るときも、自分が表現をするときですら、そうなのだ。
この作品はこういう意図があって、こういう手法で、こういう観点で価値があって。あるいは、自分で表現するときも、こういうメッセージ性を持たせよう、こういう問題提起をしよう、こういうテーマで伝えよう、なんてふうに。
でも、表現ってなんだろう。アーティストってなんだろう…バスキアの作品と、スプレーアートで遊ぶ姿を前にして、そんな思考や言葉たちよりも前に鳥肌が立って、動けなくなってはじめて、私の中にその問いが生まれた。
いわゆる、上手な絵。いわゆる、正しい手法。真っ当な美術教育。美しい風景画、緻密な人物画。
バスキアにはそれらがない、でも(だからこそ、ともいうべきか)、彼の作品は暴力的に振り切った感性でひとを魅了する。それは彼が最初から最後まで、感性の赴くままに生きるアーティストだったからなのだろう。
若くして亡くなる前の作品。敬愛するアンディ・ウォーホルの死もあり、不安定な時期だったそうだ。
この作品…正直なところ、最早何を意味しているのか皆目分からない。
だが、感性の源泉から湧き出る内的な衝動を、ひしひしと感じる。推敲も整理もされていない状態の、混沌とした内面性に触れる感覚は、やはり、ぞっとする。なぜなら私はいつもその存在に直面しようとしなかった。いつも、だれかに伝える時は整然と思考した完成形で表現するものだと思っていた。だれかを納得させ、だれかに認めてもらうために、たしかな意味や根拠が必要なのだと考えていた。
でも、そうじゃない。ごった煮のように支離滅裂な、たくさんの感情と思考と感覚が入り乱れた、言うなれば「感性と思考の原初状態」。
私はほとばしるそれをこのようにして表現し切ったバスキアというアーティストの魂を思い、なんだか切ないくらいに、心が揺さぶられてしまった。
お気に入りの作品がまた増えた。
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