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人をつなぐ。あったかに拡がる。

絵をかく友人、のんちゃんの周りでは、ゆったりと濃い時間が流れている。時間の進み具合が日常から切り離されたように感じる。だからなのか、自分の記憶が消えてしまったように感じることもしばしば。

先日、のんちゃんの個展が開催され、わたしも見に行った(現在は終了)。

https://ameblo.jp/norinori-norima/entry-12565452436.html

行ったらちょうど、人が多く集まった時間帯だったようで、ちいさなギャラリーは8人もの人でいっぱい。
身動きできる隙間もあるのだけれど、いっぱい。

うち、おひとりと目があう。
えっと、この人だれだっけ。名前が思い出せない。たしか、去年の夏のイベントであった人のような気がする。

顔を見たことがある。親しく話したこともある。
仲良くなったような気もする。
……それなのに、名前が思い出せない。

目のあったお相手も、わたしのことを考えていたらしい。
うーん、この人。見たことがある。以前の遠足でご一緒した人かな。
たしか、ゆうさんだったような。

「「あの、お名前もう一度聞いていいですか」」
もう一度、お名前を聞いて。あらためて、友人になろう。
ふたり、同時に見あわせて声をかけあう。

「〇〇です。ゆうさん。Aちゃんのところでおはなしした以来ですね」
「たまこといいます。もしかして、去年の夏に京都でご一緒しましたか」

??かみあわない。
一斉に、周りが笑う。

たぶん、たまこちゃんと〇〇ちゃんは初めましてだよ。

はじめましてなのに、全くはじめましてな気がしない。
以前、親しく話をしていた友人のような、遠い親戚だった人のような。どこかで、会ったことがある懐かしい人たちばかりだ。

のんちゃんの周りでは、よく、こんなことが起こる。

はじめましてのはずなのに、どこかで会ったことがあるように思える人だらけなのだ。類は友を呼ぶというべきか、なんだか、しっくりくる人だらけ。

そのことは、わたしが感じるだけではない。
会う人会う人、それぞれに感じているみたい。

わたしは覚えのない方に「久しぶりですね」と声をかけられたり。「会えてうれしいです」と言われると、ぎょっとする。少し心配になる。
わたしが解離性障害をおこし、記憶がとぎれていたか?
わたし(の記憶)は大丈夫か?

けれど、ここ。のんちゃんやその周りにいる友人のなかでは、覚えのない方に声をかけられても、にっこりと驚く。声をかけてくれた人、みんな素敵だから、記憶のことを心配する必要がない。

記憶がなくても。はじめましてでも。どちらだっていい。
あなたが素敵だということ、今ここで会えたことには変わりがないから。

素敵な人とおはなしできて、心もほんわりあったかくなる。懐かしい記憶をぼんやり思い出せる。

はじめましてでも、はじめましてな気がしない。
そんな人、だらけだ。

わたしも、こんな風に。あったかな人の輪をつないでいけるといいな。

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人の輪をつないでいけているのは、のんちゃんが自分自身の心とつながっているからだし。周りにいる人たちの心、それぞれとつながってくれているからではないか。
……わたしはそう思っている。

人の心とつながるから、のんちゃんの描く絵は人の心の奥のイメージをゆさぶる。ブルーミングソウルイメージ、魂が花開く様子を描いた絵というのも、うなづける。

わたしも2年前に書いてもらっていた。

「へっぽこなわたしのままでいいよ。
 へっぽこのままがむしろいいかも、やってみな。」

心の奥にいるわたしは、あの時。この言葉を欲しがっていた。知っているはずなのに、思い出せなくて、もどかしく思っていた。

それなのに今は、へっぽこなわたしを受け入れて、笑って過ごせている。以前よりは、ずっと。本来あった自分とつながりはじめて、奥にある自分と外で過ごす自分とが重なり合ってきた感覚がある。

だったら、わたしも。そろそろ。
人の輪をつないでいける人に近づけているかな。
そうだといいな。


そして、その個展あったギャラリーで嬉しい再会も。ともこさんとhugしたよ。写真も一緒に写った。でも照れくさくて笑顔が壊れた。

もうずっと、知ってる気がしてたけれど、noteのなかでは会って?いるけど。まだ出会って2年で、会ったのは2回目なのね。おどろいた。

これからも、よろしくお願いします。会えてうれしかったな、ありがとうございます。

ともこさんも「素敵な」友人のおひとり。会えて、ほくほく。

素敵な人の見本だらけで、わたしは幸せもんだ。ありがとう。




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