繁忙期の出張先でのふたり。女は強い……らしい

3月は年度末。その後半の2週間は、身体が2つか3つ欲しいと思うほどに忙しい。納品した資料の検査や現場確認への立ち合いで、業務担当者や責任者はあちこちの現場へと出ていくことになる。

担当していた仕事が、異なる県にあるときは大変。移動時間も考えながら、パズルのように予定を組み込んでいく。打合せや立ち合いの時間が予定からくずれるとまた大変。あとの予定を変更しながら、移動途中でホテル泊をいれて、電話やメールで会社に残るチームメンバーとやりとり。現場立ち合いや打合せ時間についてのパズルは組みなおし。

絶妙なバランスで入れ込んだはずの予定は、ひとつ打合せが長引くとたちまち破綻する。今回もまた、ひとつ押し出されてしまった。4つ入れ込んだうちのひとつが、予定以上に長引いたから。

翌朝には別件の打合せに向かわねばならない上司を、最寄りの新幹線駅でおろし、後輩とふたり車を走らせた。本当は今日行くはずだった4件目の客先へは、明日の朝いちばんに向かう。無理を言って入れ込んでもらった打合せだから、確実に間に合わせたい。県をまたいでの移動は、峠に雪多く残るこの季節。早朝移動が難しくなる。一度、事務所や家のあるところに戻るより、近くに泊まったほうが確実だからと、泊まることが決まった。

その日は、温泉地のはずれにあるという古いホテルに泊まることになった。この温泉地自体は出張で何度か泊まったが、このホテルははじめて。事務所に残るメンバーがホテルを予約してくれたから、いつもとは違う場所に泊まることとなった。けれど、ここからだったら、明日の朝いちばんの打合せにも、確実に間に合う。

着いたホテルは想像していたよりも設備が古く、入り口を見て驚いた。それでも、館内は手入れが行き届いている。とても過ごしやすそう。温泉がかけ流しだったのも、好感触。ここでの夕食もおいしかった。

後輩とふたり、翌日の打合せの最終確認をして、それぞれの部屋で眠った。

とんとんとん。
とんとん。

ドアをノックする音で目が覚めた。

この部屋には内線がついていない。もしかしたらあったかもしれないけれど、わたしは気づかなかった。後輩が起こしに来てくれたのかな。

寝過ごしたかと、あわてて時計を見ると、まだ朝早い。ごはんの時間にも間がある。

せっかくだから、朝にも温泉に行こう。ゆうべ、そう話したことを覚えていたのかもしれない。

「はーい、起きたよ。準備したら、温泉いくよ」

ドアに向けて声をかける。

とん。とん。
……(さかさかさかさか)。

なにかドアの向こうで話す声がする。何を言っているかまで聞こえない。

「はいはいはい。今、行くから」

ホテルについている浴衣を着たまま、ざっと前をあわせて確認して。チェーンをドアにかけたまま、ドアを開く。

誰も、いない。? ?

ドアを閉める。隣の部屋のドアをたたく音だったかな。部屋の中に戻ろうとすると、後ろからまた音が聞こえる。

とん。……とん。とん。

そっと、静かにドアに近づく。耳を当てる。確かに、このドアが鳴っている。

そっと、チェーンを外し。力いっぱいドアを開けた。廊下をのぞいた。

やっぱり、廊下は空っぽだった。

……わからない。考えるのはやめた。温泉、行こう。入ってこよう。

タオルや着替えをもって、温泉に行った。ざぶんとたっぷりの湯につかり、こわばる身体と顔をあっためた。緊張はほぐれた、寒気も引いた。

ぽかぽか、あったかくなった身体で、濡れた髪をふきながら。部屋へと戻っていった。

廊下のむこうから、わたしの泊まる部屋の前に人が立っていた。青い顔をした後輩が、ドアの前に待っていた。

「姐さん、ここ。ドアをたたく音がずっとするんです。開けても誰もいないんです」
「うちも、さっき聞こえたよ。考えるのやめて、風呂入ってきた」
「こわいので、姐さんの部屋に来てもいいですか。どうも眠れなくて」

朝ごはんまでの1時間、後輩はわたしの部屋で寝た。その間、ドアの外で音はしなかった。

温泉に来るとお腹がすく。朝ごはんはおいしく食べた。繁忙期は、つい弁当やコンビニおにぎりですませてしまう。誰かが作ってくれたあったかな献立はそれだけでもごちそうだ。しかも目の前に並ぶのはザ・和食といった朝ごはんだ。白いごはん、みそ汁、焼き魚、のり。たまご……たいそう、おいしかった。

大食らいのはずの後輩は、朝ごはんの席でみそ汁を飲んだ程度。顔色が良くないまま、ホテルを出て打合せに向かった。

途中、車の中でぽつんと後輩がつぶやいた。

「秋の現場で、姐さんが足をつかまれたって逃げてきたとき、笑ってすみませんでした」

そうだった。秋頃、この近くの現場に入って同じ温泉地に泊まったことがあった。そのとき、夜。布団の中で足をつかまれて、悲鳴を上げてこの後輩の部屋に逃げたのを思い出した。あのとき、笑われたっけ。覚えてなかった。

「わたし、忘れていたから。いいよ、大丈夫だいじょうぶ」

来年も、またこの仕事をすることになったら。同じ部屋にみんなで泊まろう。大勢で、わいわいと合宿みたいにして。そうすれば、夜に聞こえる見えないノック音も、足をつかむ感触も。気づかず笑って泊まれるよ、たぶん。

だって、あの温泉地。温泉も気持ちいいけれど、ごはん最高においしくない? 何が食べられるか、楽しみだよね。

車を運転してくれている後輩に、カーラジオを操作しながら話をした。

「おんなは強えぇ」

やっと後輩の調子が戻ってきた。顔色もよさそう。

「打合せ終わっても、まだ2件回るからね。雪ある道は運転よろしく。途中で、おやつ買ってあげるから。コーヒーもつけちゃう」

無事、その日の打合せ全てを終えて事務所へ帰った。そのうち、繁忙期の波に飲み込まれ、ドアのノック音のことは忘れた。

たまに、あの温泉地のことを思い出すけれど、仕事以外で立ち寄ったことはない。聞き取れなかった、あの声が何を話していたか、今も知らないままだ。

#不思議な話 #記憶 #山 #温泉地 #私の不思議体験

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