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思い出の夜。ペンギンなお姉さんとの夜

どうしても、帰りたくない夜だった。あこがれていた先輩に結婚を申し込まれ、考えてかんがえて、お断りした夜。

同じ宿舎で、一緒のダイニングで。その先輩も含めた10名程度で雑魚寝していた学会の夜。どうしても、すぐには宿舎に帰れなかった夜。

はじめて、ひとりでバーに立ち寄った。私の中で、大人の女性が悩みをひとりで溶かすのに、最適な場所というのがバーだったから。

そうはいっても、まだ院生。25歳になったばかり。カクテルなんて飲んだこともなく。バーに入ってみたのもの初めてで。何を頼んでいいかもわからず、途方に暮れてカウンターに座った。カウンターの中は、きりっと髪を一つに結んだお姉さんが立っていた。中にいたのが男性出なかったことに、少しほっとした。

「今日は、何を飲まれますか」
「わたし、初めてバーに来たんです。どうしても、帰りたくなくて。でも、どうしていいかわからなくて、入ってみたんです」

答えになったか、どうだかわからない。そんな言葉を聞いて、おねえさんはにっこりと笑う。

「どんな気分のお酒を飲んでみたいですか。いつもは、どんなお酒を飲まれていますか」
「んと。いつもは、日本酒を飲んでいます。濁り酒が好きです。一升瓶を抱えて飲むような飲み方をしています。
 でも、失恋をしたので。かわいくて、強いお酒を飲みたいです」

ちょっと、困った顔をしたお姉さんは。重ねてわたしの好みを聞く。

「甘いお酒でなくても大丈夫ですか」
「はい。甘いのは苦手です。フルーツの味は大丈夫です。強くてもいいから、かわいくて。ほっとできるお酒を飲んでみたいです」

そうですか。ちょっとまっててね。

おねえさんは、さっと長いカウンターの向こうへ消えていく。もうひとりいた、おじさんと少し話をして、何かのカクテルを作ってくれた。名前を教えてくれた気がするけれど、その名前を覚えていないのが残念。

すっとした、三角形のなかに、うっすらと白く濁るアルコール。ほんのりと、酸味があるような。柑橘系の風味が口に残るカクテルだった。

ちびちびと、なめるように飲みながら。先輩と一緒に過ごした数年の時間を思い出す。もし、先輩がこの先に行く場所が日本の中ならば、一緒についていったかもしれない。恋愛の気持ちがないとしても、ふたりで新しい何かを作って行けたかもしれない。けれど、この先。海外へ行こうとしている先輩についていくなら、日本語でない世界に行く覚悟をもたないといけない。わたしには、そんなこと。できない。

ひとりごとをつぶつぶと。つぶやきながら、カクテルを飲んでいく。たまに、グラスをほの暗い灯りに照らしてみたり。しゅっとしたガラスのふちを、指でなでたり。ちびちびと、飲んでいく。

カウンターの中で、おねえさんがそっと。こちらを見ている。姿勢の良い、ペンギンさんのようで、その目線すらかっこよく感じられる。

1杯目。なくなるかどうかというときに、こそりと。おねえさんが近寄ってきた。

「もし。香りの不思議なお酒も大丈夫なら、きゅっと来るカクテルもありますよ。アラスカという名前なのですが……」

シロクマ好きなわたしは、「アラスカ」という名前にきゅんとした。2杯目は、アラスカに決めた。

おねえさんが持ってきてくれた「アラスカ」は、かなり冷たくて頭に染みる香りのお酒だった。薬のような、ヒノキの山の中にいるような。風のような香りのカクテルだった。

気づいたら、3杯目。それも、アラスカ。2杯目とは違う種類のお酒で、作ってくれたという。そのアラスカを舐めながら、ペンギンのおねえさんを目の前に、ぽろぽろと涙をこぼしながら時間を過ごした。

できれば、ついていきたかったのかもしれません。でも、日本の外は私にとって、遠いんです。自分に自信もありません。好きというだけでは、ついていけない世界なんです。でも、先輩のことは好きだったんです。わたし、どうすれば良かったんでしょうか。

ペンギンのおねえさんは、店の中をちょこちょこと動きながらも、時々、わたしに水を入れにきてくれた。わたしの近くに来た、その時々は。困った顔をしながら話を聞いてくれた。それが、ちょっと嬉しかった。ほっとした。

グラスに入れたお水と、目の前にあったアラスカを飲み干したころ。お店が閉まる時間になった。わたしも、帰らなければならない。

恋愛小説の中でみていたように、誰か他の素敵な男性に会えるわけでもなく。誰かにしっとり慰められるわけでもなく。みっともなく、泣き続けてみた時間にしてしまった。それでも、ペンギンのおねえさんが、合間を見て寄り添ってくれた、やさしい夜だった。

恥ずかしいまま、酔ったわたしは、よろっとスツールから立ち上がる。おねえさんが、すっと近くに来てくれた。手に、かさりと何かを載せた。

「泣いた後は、きっと。おいしいですよ」

いちごみるく味の、三角形の飴だった。針葉樹のにおいが残った口の中に、あまい香りのいちごみるく。口の中で一瞬けんかして、口の中はいちごみるくが勝った。のどのおくは、針葉樹のまま。泣きそうな気持が残ったままの自分の心みたいで、ちょっと、がっかりした。

バーで飲んだら、もっと。すっきりと苦い気持ちは消えると思っていた。苦い気持ちは消えてくれなかったけれど、口に残ったみるく味みたいに、ペンギンのお姉さんの困った笑顔も、わたしの中に残った。

「何があっても。きっと。今、自分で選んだことを懐かしく思い出せるときが来るから。無理して、飲もうとしないでね。今度は、たのしく。バーに飲みに来てね」

困ったような笑顔のお姉さんに見送られて、宿舎へ戻った。帰ったら、まだ。誰も戻っておらず、ひとり。ベッドに横になった。

翌日からは、何事もなかったように。皆と、いつもの毎日が始まった。

あれから、もう。何年も経って。大人になって、わたしは結婚もして。夫とよそのバーへも行ってみる。

かろうじて覚えていた「アラスカ」を、バーに行くたびに頼んでみる。けれど、あの夜に飲んだ、針葉樹の香りがする、山の風のようだったアラスカにはまだ会えていない。あの、ペンギンのおねえさんにも。あのあと、会えずじまいだ。

今は、もう。笑って大人になりました。おねえさんは、今も、カウンターのところでペンギンさんになっていますか。かっこよい、あの姿に憧れて、わたしも。しゅっと、立とうとしています。わたしも、だれかのペンギンであろうとしています。次は、お姉さんのつくるアラスカが飲みたいです。

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