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帰りたい、迷子。

きーん。耳の奥に差し込まれてくるような静かさが、夜の森を通る。

音のない静けさのなかで、時折。自分の内側で流れる血の音、脈拍と重なる筋肉の震えが耳に届く。首をちょっと動かしたり、まっくらな向こうをよく見たいと意識を向けたりすると、突然のように自分の内側から音が聞こえる。

心臓も血の巡りも、生きている限りずっと続いているはずなのに……夜の森の中では、生きているはずの自分の音が聞こえてこない。圧倒的な静けさに、生きている自分は飲み込まれる。ちっぽけであると、知る。

山や森のなかで過ごしていると、人も生き物のひとつでしかないんだなと思う。大きな景色の中で、小さく動いている人。

人である自分を忘れないように。生きていると覚えておくために。外へ向けて細く長くたくさん意識の触手を伸ばす。そうして、外から自分に触れ直す。

そうでもしないと、境があいまいになって、景色の中で溶けて消えてしまう。景色の邪魔をしないように、けれど、ここにわたしはいる。そのことを、何度も確認する。

それだからか、街に戻ると調子が崩れる。
外へ伸ばした触手が行き場を無くす。大きな音や気配が、ぐわんぐわんと渦のように頭を揺さぶる。

そのうち、その揺さぶりに慣れて、街の暮らしを始める。自分の外をおおっている膜をとおして、人と関わる。

人と関わることは、うれしい、たのしい。特に、大切に思う人に会えると、こころが弾む。……それなのに、わたしは、しおれて、しぼんでいく。
わたしを守る膜は少しずつ厚くなり、気配は少しずつ遠くなる。自然や空の中に溶ける圧倒的だったはずの気配が、わからなくなる。息苦しくなる。


身体にも意識にも、ここまでなら大丈夫という許容範囲があるように感じている。

その許容範囲は、生まれつきのものではないか。
最大と最小は初めから決められており、そこから、大きく外れることはできないのではないか。

環境への慣れによって、多少の融通はきくかもしれない。それでも、許容範囲を超えてしまうと、身体や意識を保つことが難しくなる。

そして、わたしの持つ許容範囲は、どうにも狭すぎるのかもしれない。
(もしくは、センサーが敏感過ぎて、ぬるぬると動き、適正な場にとどまれないのかも)

街で暮らす息苦しさの中で、また山に帰りたいと思う。
けれど、山に帰ると静かすぎて怖いと思う。

それでも、山と街。どちらも、わたしの帰る場所だ。山に居ても、街に居ても「帰りたい」と思い続ける。

居場所ができれば「帰りたい」と思わなくなるんだろうか。

居場所は作るものだという。長期的に続く居場所は、まだわたしにはない。どうやって作ろう。どこに作ろう。

考えながら、まだ「帰りたい」と思っている。
(どこに帰るの?)

身体と意識の許容範囲を知ったら、帰る場所がわかるのかもしれない。それまでは、いったりきたり迷子つづく。

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