見出し画像

2021/6/18-19(土)責任を取らないつまらなさ


昨日の続き。責任について連想を広げます。かなりの飛躍だけど。

「責任」。今の社会ではこれほど怖い言葉はありません。責任は糾弾とセットです。責任を負うということは、何か一つでも間違いがあればあらゆる糾弾を我が身一つに浴びせかけられても仕方のない事態が待っているということ。怖い社会です。今の時代はいかなる失敗も許されない潔癖社会。そのくせ身内の失敗だけはなあなあで済まされるという適当な社会でもあります。

もはや責任というものは、気に食わない政敵を追い落とすべく、落ち度があればこれ幸い、嬉々として互いになすり付け合うためだけにあるかのよう。力あるものが皆を代表し、覚悟を決めて引き受けるものではなくなったようです。

だけど本来責任というものは成熟した強い大人だけが持ち得る特権であり、社会人として生きる上での誇りであったように思います。少なくとも明治期までに活躍した偉人たちについて数々の逸話を読む限り、当時の偉人たちは、死というものと常に隣り合わせだったからだとも思いますが、腹の座り具合が半端ではありません。

一切の責任を取りたくなければ簡単です。人の意向はすべて否定せず、誰にでもいい顔をして共感と同情を示すことです。ただし具体的な行動には出ません。実働は他の人にやらせます。失敗したら「あの人が勝手にやったことだから」と言えばいい。

責任を取るということは利害の一致しない相手を必ず敵に回すということです。必ず嫌われ憎まれます。それでも筋の通らないものにはダメといい、自分が正しいと思うことだけを実行する。判断が間違っていれば失脚です。それがどれほど怖く痛みを伴うものか。

世の中を眺めていると、いかに責任を負わない振る舞いをするか、一方でどうやったら気に食わないやつに責任をおっかぶせることができるか、そのどちらかしかないのかと、嫌になります。

責任に、本来の誇りと名誉を復権できないものかしら。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。