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2021/5/24-25(火)法律で決められたことと世間の空気で縛られることと


続き。

昨日のnoteを仕上げてみて思ったのは、理屈さえ通っていれば行動のコントロールをされていたって全然苦痛じゃないんだけれど、気持ちの部分に入り込んできて「自分の理性でなんとかしなさい」というコントロールのされ方というのは、本能的にものすごい抵抗がある介入のされ方だなあと。

うん、これって、ほら、価値観をある程度共有している人たちによって、正規の手続きを経て制定された決まりごとであれば、まあそれを民主的な社会では法律というのだと思うのですが、それなら納得して従えるかなと。

でもこれが、理屈もはっきりしない、客観的な根拠も示されない、それでいて「あなたたちの気がゆるんでいるのが悪い」みたいに言われて、なんとなくあれもこれもしちゃいけないみたいな空気を形成されて縛られてしまうのはどうなのと。

法律がちゃんとある場合は、法律をちゃんと守らなかったから失敗したのか、みんなで守ったけれど法律が不適切だったから失敗したのか、ということがわかると思うのですが、空気の場合は失敗しても「一人一人の気がまだまだゆるんでいるのが悪い」で終わっちゃうんですよねえ。行動ではなく気持ちの部分で叱責される。そんなん言われてもね。

何度も念押ししますが、私たちの行動を変えようとする試み、それ自体に文句は全くないんです。様々な方法を試せばいいと思うのです。とった方法が功を奏したなら続ければいいし、この方法は効果なし、むしろ状況を悪くしたと過ちを認めたならこれもまた、改善された次の一手への足掛かりになるはずですもの。

そうじゃなくて気持ちの部分に踏み込んで行動をどうにかさせようというのでは、効果の測定もできなければ誰にも責任の取りようがないのにと思うのです。悪手。

まあ根拠希薄なまま安易に遂行できるうえ責任の取りようもないというのが、施策側としてはかえって好都合なのかもしれません。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。