見出し画像

2021/4/19-20(火)存在をないことにもしないし、存在をおおげさにもしない


続き。

「何を発言してもいい」と「傷つくことを発言するな」、実は単なるコインの裏表だということを昨日は書いたつもりです。だから「傷ついた」ばかり主張する人が他方では言いたい放題し攻撃しまくっている、という現象がネット上ではよく見られますけれど、あれはダブルスタンダードなのではなく排斥主義者として一本筋が通っていると見たほうがいいということです。

国レベルでもありますね、どことはいいませんが。


様々な人がいるという前提のもと言葉を選べるかどうか、これは教養の話だと思っています。自分の属する、あるいは理想とする共同体以外には興味がないから見識もないのだろうなと。

政治家の言説がああだこうだ言われがちなのは、言葉尻ばかりとはいえ、そこには政治家としての見識の広さや人間性が反映されているのも事実であることを保守派は認めなければいけないと思うのです。


一方で、言葉尻ばかり捉える減点法で、やれ傷ついただ、やれ差別だと、ここぞとばかりに気に食わない政治家や言論人を潰しにかかる人たち。傷ついた人が実際に存在したのは事実でしょう。少数ならば無視していいとも思いません。

そういうことではなく、少数だろうが大多数の人がそう思っていようが、言葉づかいそれ自体への配慮、いやそれ以前にあなたたちへの配慮って、何を差し置いててでも本当に必要ですか、第一優先にすべき案件ですか、と。

そんな言い方するなの前に、その人が何を伝えたいか、内容の本質や誠意を、まずは正しく理解しようとしてますかと。

一部の人の声を大袈裟に騒ぎ立て、もっと配慮しろと存在ばかりをやたらとアピールするやり方に、物言わぬ一般人は内心「やっぱりあなたたちとは仲良くなれない」とうんざりしているかもしれません。

存在をないことにするのが教養的不見識なら、存在を強調して他人に配慮ばかり強いるのもまた、人の心に対する不見識だと思う今日この頃です。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。