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頼まれてもないのに。その46(大相撲の話題おかわり:勝負師である前に人として)

 喉にささったまま、どうしてもとれない小骨のようなもの。
 お相撲ネタでもう一つどうしても書いておきたいことがあります。

 八百長とガチについて。

 昨今の風潮として「ガチこそがすばらしい。ガチこそが人に見せるべき真の姿」という声がより高まっているように感じます。
 ガチ=真剣勝負。
 あらかじめ言っておきますが私だってここぞの一番にはガチの取組が見たいです。否、ガチの取組でなきゃだめに決まってます。
 男と男の意地の勝負ですよ、どっちが強いか世間様に知らしめる。当然のこと。

 この中で俺様が一番強い。
 力士たるもの、己の真の強さを大衆に見せつけたい欲求がなくてどうする。
 負けることが悔しいのではない、相手よりも己が弱いことが悔しい。力足りぬことが、技能の足りぬことがただただ悔しい。
 次こそは見ておれ。

 そういうのがガチ勝負の魅力だと私は思うのです。

 だけどね、昨今、ちょっとその声が過激になりすぎてやいませんかと。
 「あの力士はガチだから応援する」
 応援するかしないかを、ガチかそうでないかだけで決める。それってなんかおかしくない?
 充実したいい相撲を取る上にガチだから応援に足る力士なのであって、たとえガチだとしてもとにかく勝てばいいんだという内容の薄い相撲ばかり取る力士や逆にやる気の感じられない相撲を取り続ける力士、これ、応援するに足りますか?

 あの力士はガチだ、あの力士は八百長だ。
 一方的に八百長認定された力士たちにもファンがいるのですが。後援会がいるのですが。出身地には応援している人たちがいるのですが。

 13日目にもなると、7敗になって後のない力士と、8勝してひとまず安心の力士とがそれぞれ出てきます。
 確かにね、私が子どもの頃の取組なんてここからはどう考えてもヤオの嵐でした。7敗勢が8勝勢と戦うと、まあほんと面白いくらいの確率で勝って嬉しい千秋楽を迎えるんだ。そんなわけないよね。子どもにだってわかりましたよ。
 だからって番付を無視してまで似たような成績の力士をぶつける必要あります? いくら7敗どうしだからってよほどのことがない限り番付上位の人が勝つに決まってるではないですか。むしろ逆にヤオじゃないですか。

 八百長はよくないです。これは断言します。
 勝負事はガチであるべき。一ファンとしてこれも揺るぎないです。

 だけど、すべての取組がなにがなんでもガチじゃないと許されない、そこまで極端に走るのはさすがに違うんじゃないのかなあと、ここ数年の大相撲を見ていて疑問に思うのでした。

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 なにがなんでもの完全なガチは怖い。

 いちファンとして、私は大相撲に一体何を求めているんだろうなあと、ちょっと立ち止まって考えなおしてみたのです。

 ・いくらガチが一番とはいっても、勝つことこそが唯一絶対の正義であるといわんばかりの、技能をいっさい感じられない押して引いてのワンパターン相撲ばかり見せられるのはただただ退屈。
 ・各力士が地道な稽古で各々培ってきた、力比べ、技能の披露といったものを楽しみたい。
 ・横綱や大関といった看板力士が、最後は実力の違いを見せつける相撲を取り切ってもらいたい。番狂わせってのは本来横綱も大関もめったに負けないから番狂わせなのであって、こうたびたび負けてたらただの日常です。
 ・ガチにはケガがつきものだと思うので、稽古中の怪我はともかく場所中の怪我に関しては公傷制度を復活し安心して長期休養させてあげてほしい。

 今年一年の大相撲を見続けてつくづく感じたことは、圧倒的に強い人のいない大相撲というのはなんと締まらないものかということ。つまり番付と強さが一致しない一年はここまでグダグダになるものかと。
 平幕優勝は数年に一度あるから盛り上がるのであって、3場所も続くとまったく新鮮みも有難みもなくなるということもわかりました。こんなじゃ番付要らない。意味ないもん。

 「いやいや、これこそがガチの証明」と嬉しがっている人も当然いらっしゃるでしょう。ガチだからこそ正代も御嶽海も大関の座から陥落しました。今年一年通してお二方の相撲を見てきていますから、これも妥当な結末、仕方のないことなんですけれどね。
 でもね、彼らだって実力で昇進したんですよね。大関に上がるまでの実力には嘘偽りがない。それがすぐに勝てなくなりました、はい陥落です、そういう現実の厳しさを突き付けることでスッキリする人たちもいるんでしょうね。
 ごめん、私はそういうタイプではない。
 はっきりいいます。可哀相だ。
 彼らのプライドを平気で傷つけることを当然だと切り捨てられるほど冷酷な、それどころかむしろ爽快感を得られるほど残酷な精神のつくりをしてないんだ、私は。

 本人たちだけじゃない。彼らの後ろには後援会もいる。ずっと支えて期待してきた地元のファンもいる。
 むしろ大相撲というのは、お相撲さんたちを陰日向に支える大勢の人たちのおかげでここまで来ているのだと思う。

 もちろん本人たちの実力不足が招いたことです。でもさ、それだけで片づけていいことなのかな。
 実力なければサヨウナラ、だって実力ないんだもんね、仕方ないもんね。そこまでに必死で努力してきた過去は、成績はどうなるの?

 ガチを本気で貫きたいなら番付はつけちゃだめだわ。
 その時その時で王者をつくったほうがいいわ。毎場所が下剋上。そのほうがずっといい。みんなでディフェンディングチャンピオンを倒そう。さあ何場所君臨できるかな。
 一世を風靡しようがケガしてしまえば栄華ははかない。
 完全平等、完全なる実力社会はあまりに厳しいのです。

 でも私が大相撲に求めているものは、大相撲の中に見たいものは、そういうものじゃありません。

 私は大相撲に、人の姿を見てきました。
 これからもそうありたいのです。
 強さも、弱さも、意地も情けなさも、なにもかも。
 表向きの勝ち負けだけにとどまらない、良いところも悪いところもさらけだされた、いち人間の生身のありかた。
 この先もそういう大相撲であり続けてほしいのです。

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 正真正銘のガチ勝負というと、古代ローマで昔行われていた剣闘とか、スペインの闘牛とか、鶏同士の闘鶏なんかもそう。ああいうのは本物のガチですね。
 つまり本物のガチというのは最終的に人権や命を無視したところに行きついてしまう見世物。
 極端な例と言われてしまえばそれまでですが、ガチを極めに極めていけば最終的にそこまで行きます。
 本物を見たい。なるほど。純粋なる闘志にこそ私たちは金を払っているのだ。確かに。

 でも、なんていうかさ。
 私は殺し合いや殺し合いに準ずるようなものは見たくないんですよ。
 そうね、相撲は殺し合いじゃないよ。ケガさせることが目的じゃないよ。
 でもまごうことなき格闘技の一種なんです。相撲の元祖だって最後に敗者を殺してます。
 一つ間違えば、最悪死ぬんです、あれ。

 だから相手に不要な怪我をさせないための様々なルールが存在するし、力士一人一人も、相手からどんな技を出されようともどんなアクシデントが生じようとも、普段から簡単にはケガしない体づくり、鍛え方をされているはずです(……ですよね、ですよね???)。
 年6場所、15日間をスタミナ切れすることなく戦いきれる気力体力も常日頃から培ってきているはずです(ですよね、ですよね、ですよねえ???……)。

 力士は私たちに見せるため、楽しんでもらうためだけじゃなく、当然ですがご自身の幸せと生活のために相撲を取っています。
 彼らの日常生活や未来の健康を犠牲にしてまで私たちを楽しませてほしいだなんて思いません。彼らが今もこの先も元気であることを大前提に、私たちは大相撲を楽しんでいます。

 八百長を許さないことが彼らの健全な競争と鍛錬の日々を守り、彼らの実力をまっとうに評価し、平等な昇進をもたらすことにつながると信じています。不健全さや腐敗、無気力の元凶となる八百長は許されてはならないもの。

 でもそれと、だから何がなんでもいついかなるときでもガチであらねばならないというのとはイコールではないよなと。
 お相撲さんたちを守るために八百長を否定していくべきであり、お相撲さんたちに過度の無理を強いてまでガチを最優先課題に掲げ、八百長を完全ゼロにすべきと声高に叫び続けるのは違うのではないかと警鐘を鳴らしたいのです。

 ちなみにガチ力士が評価され愛されるのって「そうでなさげな」力士が同時代にいてくれてるおかげでもあるんですけどね。
 「俺はずっとガチンコでやってきた」を標榜する人って案外そこ気づいてないんですよね。人がやれないことをやってきたから評価されるのであって、みながほんとにガチンコだったら埋もれてたかもしれないのにね。もっと大きなケガをしてたかもしれない。

 いつもいつもフルの本気って怖いんだよ。
 手加減だってヤオの一種かもしれない。
 撲滅すべき八百長はその手のヤオとは全然違うんだと反論されてしまうのでしょうが、そうかな、延長線上にあるというところでは根っこは同じだよ。人情相撲も片ヤオも、利害関係ともなう八百長も、どっちもヤオであることには変わらない。

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 ヤオを絶対許さない方針で行くのであれば、まずは今の力士のほとんどが年6場所15日間をフルで戦うのは無理だという現実を受け入れることだと思います。しかもここに巡業が加わります。ケガを直せる時間はどこ?
 かつ公傷制度を復活させること。真剣勝負であればあるほど思わぬケガがつきもの。一定期間であれば長期休養を確保すること。
 公傷制度を復活させないのであれば番付なんてものは、あああんなの形ばかりのものですと開き直ること。過激なことをいえば横綱も大関も必要ないかもしれない。その場所その場所で強い人が違うんだもんね。
 お給料も家族を十分養える程度の階層別基本給+完全賞金制で行きますか。
 完全なる平等を期するには親方株問題にもメスを入れなければなりません。第二の人生を己が選んだならともかく、親方株が手に入らなかったから角界離れますって、それなんなんですか。一度入った部屋と相性が悪かった時に移籍できず、我慢あるいは廃業するしかないのも問題です。なにかとしがらみが多そうな一門制もどうなんですかね。

 つまり大相撲のシステム自体が全然違うものになるだろうということ。
 大相撲が純粋なスポーツとして生まれたものではなく、相撲をやること=貧しい日本でなんとか食べていくための一手段、疑似家族集団であったという過去の現状と、そのありかたがそうはいっても今の日本にはだんだんそぐわなくなってきつつもあるという側面。
 そんな時代の変化で表面化してきた「ヤオーガチ論争」との関係をどう折り合いつけていくか。

 スポーツとして完全に振り切る決断ができるなら、全部ガチでやれると思うんです。つまりそのためにはいろんなものを切り捨て、まったく違うものに変容する必要があります。相撲部屋、タニマチ、親方株。
 ケガしたときの賃金・地位の保証もしなければなりません。脳震盪なんてもってのほか。それこそ九州場所の優勝決定戦みたいなのは土俵で動けなくなった時点で高安を負傷脱落にし阿炎と貴景勝で優勝を争わせるという決断をしてしまうのも一つの手。そしたら貴景勝もクリアに勝負に向かうことができたでしょ。
 ガチ最優先ってそういうことです。
 真のガチってのは力士の最低限の人権を保証した上で成立するもの。

 でも大相撲って今はまだ厳密な意味ではスポーツではないでしょ。
 興行団体であり、生活共同体。
 己の実力だけでなく、親方との関係、タニマチとの関係、さまざまな人間関係とおカネの中で生活が成立している人たち。

 それがいいって言ってるわけじゃないです。従来のしきたりが変わらないせいで苦悩している人たちもいると思うのですが、それによって救われている人たちのほうが多いんだろうなあとも思うのです。
 中にいる人にしかわからないことが多そう。外から「それはへんだよ、これもへんだよ」ということはたやすいんだけども、生きていくために時間かけて構築されたシステムというのはそれはそれで便利にできているはずで、それを現代の価値観であーだこーだ壊せ壊せと強いていいものかどうか。
 中の人たちが、後輩たち、弟子たちの生活を壊さず、かといって悪い部分をそのままにもせず、ゆっくり無理なく変えていく。若い親方衆も増えてきましたし、彼らの健全さを信じて待てばいいんじゃないかと思うんですね。

 ヤオだなんだ、協会が腐りきってるだ、批判するのも趣味としてはいいでしょうけれど、中の人をもっと信じましょうよ。中の人がダメなら大相撲が腐ってなくなるだけ。そんときは仕方ない。
 そうならないようとくに若い親方衆が頑張っている印象を私は受けていますけれどね。だって彼らにとって一番大事なものは大相撲なのだから、人生かけて知恵を絞り、日々頑張ってると感じるのです。
 「私」にとって、ではなく、「私の理想」ではなく、彼らの望む良い角界に近づいていくのであればそれでいいじゃないですか。

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 ちょっと脱線しました。戻します。

 いちファンとして、正直、全部が全部ガチじゃなくてもいいです。
 そこまで期待してない力士がなにしてようが、私は別にです。
 ガチで取れるスタミナと実力のある若手有望力士の出世とやる気の邪魔さえしなければどうぞご勝手に。プライド捨ててまで食い扶持維持するのも一つのやりかたですよね。
 ただお金のやりとりがあったり、ましてや相撲賭博がらみの八百長、そういうのは一発レッドカードでお願いします。十両互助会みたいなのも勘弁。幕下の有望力士が上がってこれなくなるから。つまり角界全体の損失になるから。新陳代謝は大事です。

 大関互助会みたいなのもやりたきゃどうぞ。ただこれは大関へのリスペクトが目に見えて下がっていきます。観客にはけっこうバレバレなんですよね。なにより自分自身の誇りが汚れていくのではないかな。そういう点では正代や御嶽海みたいに陥落するなら陥落してしまうほうが長い目で見れば最善。

 つまりこんなのルールやらなんやらで規制するもんじゃないんですって。やらない人はやらない。やったら汚れるし、けっこうバレてるよ。
 やらない人にまで強要してくるのをアウトにしてくれればそれで。

 で、14日目や千秋楽、7勝7敗をぶつけまくるのは基本的にいいアイデアなんですけれど、番付を無視してまで機械的にぶつけるのはさすがにやりすぎかと。
 好成績の番付上位を上に当てるのは好きですが。
 下位でぎりぎり7敗なのに上位の7敗と当てられちゃあ、さすがに実力が違いすぎて勝てませんもん。それこそ変化しますか? つまんないよ。

 ということで、そこまで厳格にしなくても最後の最後、多少のお目こぼしくらいいいじゃないのとぶっちゃけ思うんですけどね。
 いやいやそこまでしないとやっぱヤオになるんですよ、ガチの子たちがわりくうんですよ、とかいう、このあたりには関取やってきた経験者にしかわからない面倒くさい人情とかしがらみなんかもひょっとしたらあるのかもしれませんが。
 ゼロレベルにまでヤオを排除することこそがファンサービスだと思ってのことであれば、うーんさすがにそこまでしなくてもいいかなと、私は思っています。

 あとこれはヤオじゃないけど、15日間の途中途中で明らかに疲れてたり相撲が雑だったりする力士の目立つ日がありますね。本来あれもどうかと思いますけれど、人間ですからね。でもあれは損した気するわあ。

 力士を一人の人間として尊重するのであれば、全身全霊のガチ勝負を見せてもらえればこれ以上の喜びはないし、自分の体に何があっても15日間ガチでやり続けますという心の強い力士は全力で応援したいです。
 でもそれをいつもいつも強要はできないなあ。そう思っているというだけの話です。

 あと、いくらガチだからって押して引いての相撲しかとらないとか、勝つときはいつも土俵際だとか、小兵でもないのに立ち合い変化を不定期に織り込んで、相手に強く当たれなくさせといて勝つなんて作戦(作戦って言わないんですよそんなの)取るような力士なら、いくらその人ガチだよと言われても応援しないですよ私。

 ガチかヤオかだけが判断基準じゃありません。
 勝ち負けだけで判断しているのでもありません。
 真に力のある、技能のある、強い力士同士の競い合いを見たいのです。
 それこそが興行じゃないのかなあ。

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 力士だって人間。弱さを克服できる日ばかりでもない。
 迷い、間違う日もあっていい。
 孤高の勝負師である前に、血の通った一人の人間なのだから。

 そこをはき違えたとき、平成の大横綱が引退後、あまりの潔癖さゆえに周囲や自らを追い込むに終わったような悲劇になってしまうのではないでしょうか。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。