2021/6/19-20(日)情報の選び方にも型破りと形無しがあると思う
金曜日にアップしたnoteを、今度は「情報の取捨選択」という視点から広げてみたいと思います。
例えば本のレビューを書くとして。短くまとめられる人といっても二種類に大別されると思うのです。
一つは本の全体像を適切に把握できているのでエッセンスとなるいくつかのポイントがちゃんと見えており、状況に応じてどれを選ぶか決められる人。
もう一つは全体像の理解に乏しく「自分に理解できるところしかつまみ食いできてない」のだけれど、その唯一理解できたものだけをつぎはぎし、それっぽくレビューとしてまとめてしまう人。
よく「型破り」と「形無し」という言葉が対比して語られます。基礎をあえて崩したものと、基礎をおろそかにしているだけのただ崩れたものを、同等に捉えてはいけないと。
情報の取捨選択にも同じことが言えるなあと思ったのです。
わかるところだけを取り出したつぎはぎを読むのは、子どもの又聞きを聞かされているのと同じなのです。形無し。
まとめる技術だけが異様に高い人たちが世の中に蔓延しているので、こういう人たちをしっかり見分け、振り回されないようにしないといけません。
そうではなく、全体像は理解しているし最もオーソドックスにまとめるためのポイントも的確にわかっているんだけれど、そこをあえてちょっと外してみる、あえて揺さぶりをかけてみる。型破り。
つまり型破りこそが個性であり強烈な自己主張なのだと思います。当然反感をくらうこともあるでしょう。でもそれは本人も織り込み済みのはず。
形無しの人間が批判されるとすぐに心折れるのはそれが未熟な幼児性に基づいた偶然性の産物だからこそだと思うのです。ほめてもらいたくて発表したことだから、少しでも否定されると、作品ではなく、心が傷つけられたと感じるのでしょう。
また話が脱線。
情報を鋭く取捨選択するにも、やはりこれまでの努力による基礎の有り無しが問われます。だからわくわくするんです。
武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。