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頼まれてもないのに。その36(勝ち組負け組話完結編)


年末に書き始めて以来まったく共感を得られていないこのテーマですが、それでも出し切らないといけないという思いから最後まで書き切ります。自分でもわかってます。重いし黒い。これは同意を得られない。

ただそうは言っても私の中では避けて通れないテーマだという思いが強く、ここまで来たらしっかり完結させなければならないと考え、長文としてここに置いておきます。

流れとしては12月16日から23日までがだいたい同じテーマ。

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先に私がずっと言いたかったことの結論を書いてしまうと、

1:勝ち組にも言い分があるのはわかるけど日頃から負け組の気持ちを汲むようにしたほうが安全だと思う。あなたの日常語りや愚痴は往々にして幸せ自慢お宝自慢になっているものだよ。権利の問題ではなくセキュリティの問題。

2:負け組は勝ち組に関わるな。あの人たちだってすべてがすべて勝ちなわけじゃない。虚飾も多いんだからいちいち目くじら立てるな。よそはよそ、うちはうち。自分の心の傷を相手にまで負わせるな。加害者になるな。

3:日本で負け組だと思ってる人の多くは、世界基準では勝ち組だよ。

4:本当に豊かで幸せな独自の道を切り拓くことができるのは、自分が負けたことを受け入れられてから。

以下1~4とはまったく順序関係なく論が進みますのでめっちゃ読みにくいかと思いますがご容赦ください。最終的にこの4点に向けて収束はしていきますので。

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私たちは負けることが生理的に嫌。当たり前。本来負けることは死を意味することだから。人間は幸運にもなのか、不運にもなのか、負けても引き続き生きることができる生物です。

再チャレンジの機会があるということでもあり、また違う分野で今の命のまま生まれ変わることもできます。もちろんそこでもまた負けるかもしれません。次なら必ず勝てるという保証は全くありません。

つまり負けの蓄積がこんでも死なないようにできているというのは見方を変えればとんでもなく残酷な仕様なのかもしれません。負けは劣等感と恨みを伴います。持つなと言われても無理です。人生は積もり続ける劣等感と恨みにどう折り合いをつけていくかという試練の連続なのかもしれません。

そう考えると、人生とはふつうに生きているだけで修行なんですね。

さて、では他の領域で成功すればこの劣等感や恨みとおさらばできるかというと皆さんどうやらそうでもないようなのが業深い。時々いません?特定の属性の人に対してのみ普段なら絶対に見せないような敵意を見せる人。その他の人には穏健なのに。一度刻まれた劣等感というものはそう簡単に成仏してくれるものではないみたい。学歴の話に限って言うならかつて知り合った東大生が言っていた「東大に入ってよかったことは東大コンプレックスを持たずに済んだこと」、残念ながらこれに尽きます。

劣等感は攻撃性に形を変えます。負け続けても攻撃的になっていく。他の領域で成功を収めても攻撃性はなくならない。どうしたらいいのか。

人を呪わば穴二つ。その攻撃性は同じ威力で自分を痛めつけてきます。自分をこれ以上惨めにしないためにも私たち自身が己の劣等感、恨みの気持ちを克服しなければならないのです。相手のためではない。自分のためです。

そのためにもまず、自分が負けたこと、自分が傷ついていることをしっかり受け入れなければならないと思っています。かつその傷を完全に癒すことは不可能であることも受け入れつつ「次善策として何ができるか」に気持ちを向けていくしかありません。私たちは生き続けなければならないのですから。

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望んだものになれなかった。望んだものを手に入れられなかった。

少しばかり想像をしてほしいんです。望んだものになった人たち、望んだものを手に入れた人たち、本当に皆が皆幸せそうでしょうか。決してそうとは言えないなと、いろいろ見聞きしていると思います。とりわけ「無理して」望みを叶えた人たちによくありがち。不思議なことに「そうなることが自然の流れ」に見える人たちにはあまり感じないのですが。

自分が望む生き方と自分にとって自然かつ必然な生き方とはどうもなかなか一致しないようで、少しならともかく大きなズレが生じてしまうと本当につらいもの。だけどやっぱりね、望んだ生き方が幸せを感じられる生き方につながるかというと全然そんなことないんだよ、という事実、認めたくないかもしれないけど、認めないといけない。

認めないで望みのほうを優先するならその後に生じたことの責任はやはり自分で負うしかないです。誰のせいにも、もちろん社会のせいにも制度のせいにもしちゃいけません。悔いを残さなかっただけ良いではないですか。

望む生き方のほう「が」不正解かもしれない。だからこそ何をやってもうまくいかない。そういう可能性も考えたほうがいいです。

望みを手放し違う生き方に活路を見出したとたん、思いがけない世界が拓けるかもしれません。

だから負けることは悪いことばかりじゃない。「それ、あなたにとっては間違ってる道だよ」と教えてくれているのかもしれないから。

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勝ち組の中にも二種類あって、天然勝ち組と無理してる勝ち組とがいるなと思って眺めています。

無理してる勝ち組は常に苦しそう。苦しいのをさんざアピールして同情をひこうとするタイプもいれば、私こんなに幸せなのアピールを必死に振りまくタイプもいるなあと。どっちも嫌い。

ところが天然の勝ち組さんたちは違ってて、まあ毎日大変だけどしゃあないわあみたいなおおらかさがあります。わざわざ充実ぶりをアピールすることもない。天然さんたちのほうが世の中の多様性をちゃんとわかってるんだろうなあと。

多様性を真に理解しているからこそ、自分たちがどれほど恵まれているかという事実をしっかり自覚されているのだろうなあという印象。恵まれている人が愚痴を言ったらそうじゃない人はどう思うだろうか、そういう気配りを黙って粛々とできる人たち。

そういうのこそが教養であり、知性。

私たちのネガティブな気持ちをわかってくれる。そういう人たちをどうして不快に思うでしょうか。勝ち組という言葉で一緒にしてしまっていますが、どうしても嫉妬感の付きまとうネガティブな響きのこの言葉に最もふさわしくない人たちでもあります。

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つまり「勝ち組」という言葉で嫌われるのは無理してる勝ち組たちだと感じます。

お前ら本当は私らと中身同じやんけ、ちょっとの違いで何を偉そうに。

つまり負け組の人たちから同等に思われているんですおそらく。だから攻撃されてるんだと思う。同レベルだと思われてる負け組の人たちから。

それは負け組の側の思いあがった勘違いかもしれないし、案外本質を突かれているのかもしれないし。そればっかりはわかりません。

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負け組であったとしても大半の人は人を傷つけようなんてしません。だけど極めて性質の悪いタイプの中には逆恨みという形で他人に粘着する人も残念ながらやはりいます。そういう人たちからいかに身を守るか、ロックオンされないようにするか、セキュリティの観点からちゃんと対処したほうがいいと思います。

もしかすると無理してる勝ち組さんたちの中にある消えない劣等感、隠しきれない恨みの念みたいなものにシンクロしているのかなって。

日々淡々と暮らす、自分の周辺のことを必要以上に語らない、そういうのが大事なのかなと。見せなくていいものは見せないというのは大事なんじゃないかしら。心を許せる友達にだけ開示すればいいのだから。

それと具体的に嫌がらせされなくても潜在的に嫌われていくということはあると思っていて、そういう負の念ってのも案外バカにならないという気がしています。誰かから愛されているという正の念が知らず知らずのうちに身を守ってくれてることがあると思うことが多々あり、ということは負の念だってきっと。

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さて私的には一番大事なこと。それが。

そこの自称負け組の皆さん、あなたも実は勝ち組ですから。

私もそうです。被害者しぐさしてちゃだめ。勝ち組ですよ。

この時代の日本に生まれて、そりゃ人によってはいろいろあって現在心身を損ね苦しんでいらっしゃる方も多いと思いますが、あのさ、まず我々家があるのよ。雨風完全にしのげるとこに住めてるの。毎日ごはんが食べられるの。言うほどそんなに高くないお金で。遠くに探しに行かなくても。水も安全。電気もある。

独裁国家に支配されてるわけでもない。ギャングに従わなければ殺されるなんて苛酷なこともない。ネットがある。娯楽がある。人々は大半が穏健でルールを守ることに長け、暴力も振るってこなければ隙あらば物を盗むなんてこともない。学校に通えるから読み書き計算はほとんどの人ができる。

流行り病にかかってもよその国ほど人が死なないのは医療が充実しているからだし、国民皆保険のおかげでだれもが低料金で病院で治療を受けられる。

若い女性が夜道を一人で歩ける。好みの服を着て歩ける。結婚出産を強要されない。戦争がないし徴兵制じゃないから男性は若い大切な時期を勉学にも趣味にも恋愛にも充てられる。よって男女ともに戦禍による悲しい別れを経験しなくて済む。

こんだけ充実していて文句言おうものなら、いや内々に言うのは構わないですよ、でも外に向かって言うのはなんかね。世界の人々に申し訳ないわ。

日本がどれほど恵まれていて、ということは、どれほど妬まれ憎まれていてもおかしくないということに気づかないと。

勝ち組なのになんでもかんでも被害者しぐさしていたら、引き寄せじゃないけれどほんとうにそうなっちゃうかもしれないですよ。

この恵まれた環境を正しく理解し、それでも軌道修正しなければいけないところはちゃんと修正しながら、日本の良さを保つために私たちが今後も守らなければならないことは何かを吟味する方向へとちゃんと向かっていってほしいなと強く願います。

ただ正直、これからの子どもたちも勝ち組でいられるのかな、と言われるとちょっと……この子たち、目先の軽薄さときれいごとに振り回される人生になるんじゃなかろうかと。

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結局のところ勝ち組だってずっと勝ち組だとは限らないということです。勝ち組で居続けることにも当然デメリットがあって、それが「打たれ弱い」とうこと。

打たれる経験に乏しすぎるから、ちょっとの刺激でずんと沈んじゃう。

だから適度に負けとくのも大事なんですよね。負けることにある程度慣れとかないと、ずっと勝ち続けてばかりだと、必ずいつかはやってくる負けに対処できない。

ただ負けには劣等感と恨みがつきまといがちなので、それらを攻撃性に変えることなく、かといって抑圧し封じ込めるでもなく、ありのままに受け入れ共存していけるか。

上手に負けよう。受け身の取り方を会得しよう。そして本当の意味で多様性を自分自身のこととして受け入れよう。たった一つの価値観への、たった一つしかない勝ちへの固執は手放そう。

そして勝ち抜いた人たちもまた勝ちを過度に喜ぶなかれ。今日の勝ちは明日の負け。人はいずれ負けるもの。勝ち続けるための努力には敬意を払うものの、負けるべきときには潔く負けること。無理して得た勝ちは必ず何らかの負の形で帰ってくるから。

勝ちを独占せず、負けの劣等感から目を背けず、互いが互いのつらさをねぎらうことができたとき、勝ち組だの負け組だのといった嫌な響きの言葉を使わずに済む日が来てくれるかもしれません。その日が来るのを強く信じて。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。