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映画館の思い出:同時上映が当たり前だった時代がありまして


映画館という場所はいつ行ったってきれいで静かで、ゆったりしてて。気軽に車で行けちゃうし、映画の前後にはごはんも食べられる。お買い物もできる。ネットであらかじめ見たい映画を決めておいて好みの席も予約しておけるから、何にも慌てなくていい。

個人的には今のシステムのほうがずっとずっと好き。だけど時折、これではあまりに無菌的かもしれないな、とは思ったりします。

その昔、少なくとも地方の映画館ってのは、全席自由席、立ち見あり、そして入れ替えなしの二本同時上映が当たり前でした。

館内はどこもそこはかとなくタバコ臭く、ロビーもトイレもお世辞にも綺麗とは思えず、それこそ新聞片手のおじさんたちやお金のない学生たちが時間つぶしにやってくるのがぴったりはまる、そんな空間でした。

映画館に限らず、女性が一人でもふらり安全に立ち寄れる場所が本当に増えました。そう、間違いなくこの数十年、日本のあちこちが清潔になり無臭になり、明るく広くなっているのです。

だけどその一方で、雑雑とした、暗くて狭くてなんともじっとりとした、独特の空間というものが否定され、そこにたむろしていたような人たちは一体どこに居場所を移したのだろうかとも、ふと思います。

一部のおじさまたちにとって居心地のよかったであろう場所は私たち女子供にとってはただただ不快な場所でした。どこもかしこも女子供にとって快適な場所だらけになった今、彼らはどういう思いでいるのか。どこに居を移していったのか。

何かを新たに受け入れるということは元あった何かを排除することと同義。私たちが手に入れた快適の裏には、排除された誰かが必ず存在しているはず、そのことを忘れてはいけないなと常々思っています。

話が脱線。映画館にまつわる私の思い出話に戻しましょう。

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同時上映。入れ替えなしでどちらを先に見ても、何時間いても構わない。しかも学生証を提示すれば1000円もしないで映画が見られる。

私が上京したての頃はまだそういう映画館もあちこちに点在していて、ぴあを手にとり、いろいろと物色したものです。最新の映画にはそれほど興味がなく、映画館がセレクトしたちょっと昔の映画二本立て、これが良いのです。

人気のハリウッド映画や男はつらいよだけが映画ではない、当時のアジア映画の面白さを知ったのも商業ベースではないけれども良質でとがった日本映画があることを知ったのも、学生のお財布でも気軽に立ち寄れる映画館のおかげでした。万が一映画が自分に合わなくてもこの金額ならさほど痛くはないですし、そもそも若いからどんな出来栄えのものだったとしても大なり小なり吸収して自分の血肉にしてしまえます。

そうね、当時は私たちにそれほど「選択肢」というものはなかったんです。映画だって本だって音楽だって、それらは「場所」と必ず結びついていました。そこに行かなければ手に入らないものたち。行くことで初めて顔を見ることができるものたち。そして一つ一つの場所が抱えうる選択肢の数そのものが、物理的に限度がある。

選択肢の少ない中で、いかに最大限にいろんなものを経験していくか。

私が青春を過ごした時代は、まだそういう幸せな時代でした。選択肢が少ないからこそハズレを引いても悔しくない。体験できるものが少ないからこそ手当たり次第に試して、咀嚼して、吸収して、時に吐き出して。何もかも、心にゆとりがありました。

今の時代、同時上映そのものの存在価値はほぼ皆無でしょうね。だって1000円も出さずにあれもこれもスマホで見れてしまうもの。わざわざお尻の痛い思いを長時間しなくても、好きなクッションで好きな姿勢で、あれもこれも映画を楽しめる。

迫力ある音響と大画面を楽しみたいときには映画館に足を運ぶ。清潔で心地よい感動時間を過ごす。映画館で見る映画に2000円近いプレミアムがつくことはもはやちっともおかしくないのです。

ちょっと小汚い、決して居心地のよいとはいえない、ずっと座っていたら体もこわばってしまうような雰囲気の中で、先入観もなくぶっつけで見る知る人ぞ知る映画たち。自分の当時の若さもさることながら、身構えなしに乱雑に飛び込んでくる知の楽しみはあの時代固有の贅沢だったのだということを思います。

#映画館の思い出


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