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落ちこぼれシニアのリベンジ読書~『党生活者』小林多喜二著~

共産党員の「私」(小林自身がモデル)を主人公に、帝国主義化していく国と、軍需工場である倉田工業の搾取の実態を暴きながら、組織化を進め労働争議を企てようとする話である。
話の展開もスムーズでわかりやすく、久々に書に引き込まれる感覚を覚えた。
潜伏する活動家、組織化を推進する同志、彼らの闘争の姿が生々しく描かれている。
「私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった」(新潮文庫P250)
おそらく実態だったのだろう。
 
さらに、個性的な登場人物が、この作品をより興味深いものにしている。
注目すべきは、活動下における「笠原と伊藤」という二人の女性である。
シンパである笠原は私に宿を提供するとともに、私をかくまうために所帯を持つことになる。
伊藤は潜伏する私の手足として、労働の現場で活動を推進する。
ともに活動を理解しサポートする存在であると思われるが、そのスタンス、レベルはまったく異なる。主人公・私の視点から言えば「同志になれなかった笠原」と「同志・伊藤」であろう。
 
一体何が違っていたのだろうか。
言い換えれば、「女であろうとした笠原」と「女を武器に仕事に専念する伊藤」ということか。
特に伊藤の組織力(今の時代の営業活動に例えれば集客力)は抜群である。
女工たちを観劇に誘って、帰りに甘味喫茶などで工場の実態について話し合いながらシンパを増やす。女性特有のおしゃべりをしながら問題提起をして洗脳する。
男性の本工に対しては、詳細は書かれていないが、買い物に誘ったりしながら仲間に引き入れたようである。
 
一方の笠原は? 残念ながら、私の意に反して、所帯を持つことで妻であり、女になろうとした。
(引用はじめ)
「あんたは一緒になってから一度も夜うちにいたことも、一度も散歩に出てくれたこともない!」(P227)(引用終わり)
私の方も、笠原を「如何にも感情の浅い、粘力のない女」として「お前は気象台だ」と言い放つ。
 
活動のためには「個人の幸福」まで捨てる覚悟が必要だったということ。活動家たちにとって幸せとは一体何だったのだろう。
ふと子どもの頃、テレビでみた「あさま山荘事件」や「連合赤軍のリンチ事件」を思い出した。

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